東京フィルメックスにて観賞。2024年アメリカ、コンスタンス・ツァン脚本監督作品。
ニューヨークのクイーンズ、客は男ばかりのマッサージ店で、禁止の「サービス」で受け取ったチップを自分の財布にしまい、提示の金額からの不足分をその財布から出す序盤のディディの行動は、男次第の世界で自身の欲望を可能な限り満たそうとするもので、比喩として見れば多くの女性がしていることだ。しかし見えているはずのものから目を逸らし波風立てないよう守ってきた人生は一瞬の暴力行為で吹き飛んでしまう。
(以下「ネタバレ」しています)
この映画はタイトルを挟んで二人の女性が同じことをする話に私には見えた。エイミー(吳可熙)は殺されたディディがつきあっていた出稼ぎ作業員チュン(李康生)と遊びに出て店に泊め同じ床に寝る。しかし「男女の仲」にはならない。本作では射精(を利用すること)が支配と重ねられており、移民の労働者である三人はそれの介在しない関係で安寧を与え合う。店でなされる射精の描写は「白人男性」が彼らにいつでも力をふるえることを示している。
終盤、顔にアザを作ったエイミーを海に誘っての「お金のことは気にしないで」とその後の封筒に、自分の母親を介護している台湾の妻から不足分を催促されているのに金あるじゃんと思うわけだけど、チュンはディディの「仲間」であり、発露の仕方が男ならこうなるというものに私には思われた。社長の妻に肉体を使われた晩、やり場のない憤りから彼は自分の頬をぶちディディにもらった夢=ボルチモアの写真を捨てる…がゴミの中から取り戻す。他に何もないから。
冒頭の「職場は男ばかりでむさくるしいから、君といると楽しい」なんて私ならその場で別れてしまいそうなチュンのセリフからの、女四人がマッサージ店兼住居でわいわいやっている場面の数々に、男も男同士仲良くすればいいのにと思っていると、彼だって「新人」とある程度は親しくしている。しかしあんなことを言うのは同じマイノリティの中にもある男女差、あるいは「女は分からない」という彼の、女とは違う部分の表れだろうか。ともあれ女のエイミーは夢の実体である「ブルー・サン・パレス」を目指し、男のチュンは海へ向かいアメリカの外をただ眺めるのだった。