スイスアルプスの山間のホテル。クローディーヌ(ジャンヌ・バリバール)は指をさっと舐めて捲った雑誌からダイアナ妃の写真を切り抜き、馴染みのウエイターの青年からチップと引き換えに得た情報で「明日帰る」ような男の席について彼が住む街について聞く。後にそれらの収集は障害者である息子バティスト(ピエール=アントワーヌ・デュベ)のためだと分かるが、私には、彼のことが常に頭にあるというより全てが合理的に組み込まれているだけのように思われた。毎度男が違うのだから毎度服は同じでいいと、制服のごとく前の晩にワンピースを用意するように。その合理的な日常が「間違った道」だったと気付くのがこの物語。気付けばこそ最後にあのような「分からない」が言える。
顔を背けて快楽を得た後はさっと身支度してありがとう、素晴らしい時間だったなどと部屋を後にする。それが以前クローディーヌの首を絞めるスカーフが落ちたのを拾ってくれた、最初に名前を尋ねてきたミヒャエル(トーマス・サーバッハー)とは顔を見てセックスし、彼の論文について話し掲載誌をもらい、去り際の挨拶には互いに名前を添える。裸になるとうっすら残るブラジャーの跡が、いいと思った相手とのセックスでこそ現れる奇蹟のように私には見えた。後日ホテルまでの道中、彼の姿に脇の階段を初めて上ってみる。グランド・ディクサンス・ダムから湖を初めて見る、逆さにも、後には水中からも。彼女にとって初めての眺めの数々に涙が出てしまった。しかし男は女の終着点ではない。恋は気付きの切っ掛けだ。
しかし一番心に残ったのは、女達が、「分かって」いながら手を伸ばし合えずにいること。アネット(マリエ・プロプスト)の「もう母は服を着る気力がない、だから来られなくなる」から分かるようにクローディーヌの家に女達が来るのは彼女が仕立て屋だからであり、用がなければそれぞれの家に分断されてしまう。バティストの面倒を頼んでいるシャンタル(ヴェロニク・メルムー)が手紙の嘘をばらすのは意地悪ではなく「クビにしないで」も賃金だけの問題ではない。互いが互いに話してくれればいいのにと焦れている。こんなばらばらはダイアナ妃の時代の、昔の話だからだ(そもそもこの物語自体がダイアナの孤独に重ねられている)、今は社会の変化によってもっと開かれていると思いたいけれど、一人での介護に行き詰った女性についてニュースで聞いたばかりだから、映画に胸がいっぱいになりつつも複雑な気持ちが残った。