ミサイル


フィンランド映画祭にて観賞。2024年フィンランドエストニア、ミーア・テルヴォ脚本監督作品。題材は1984年にラップランドのイナリ湖にソ連がミサイルを落とした事件。エストニアから亡命してきたという科学者の女性にはモデルとなった人物がいるのだろうか。2019年の同映画祭で見た同監督の『アウロラ』(感想)では主人公が親友とブーツにストッキングを脱ぎ臭いを嗅ぐやらして遊ぶ姿が印象的だったけど、本作では結婚式直前に生理になった妹ら女達が準備にばたばたするのがそれに相当して楽しい。

冒頭、白い雪の上を子ども達を楽しませようと車で旋回するニーナ(オーナ・アイロラ)と白い雲の上を戦闘機でまっすぐ飛ぶカイ(ピュリュ・カフコネン)の姿が交互に描かれる。後者は男の世界に属しながら、いわゆる下ネタを振られたり「生理かよ」とからかわれたり皆がサウナに集ったりするなか事情もあって一人沈んでいる。ニーナが(「私のじゃない」)うんこを手に出会った二人は、「暴力を好む」存在に圧されながら生きている者同士だと次第に分かってくる。シングルベッドを並べてセックスしようとするが服を脱ごうとじたばたするうち隙間に一緒に落ちてしまうなんて描写が、笑えると同時に比喩的でもあって面白い。

運んでいたツリーをぶつけて窓を割ってしまったことから「ラップランド新聞」に半ば無理やり入ったニーナは、イナリ湖の事件につき国が何もしないことに業を煮やして取材に奔走する。先々の男達は彼女に嫌がらせをし、編集長のエスコ(ハンヌ=ペッカ・ビョークマン)は本当に危険なら政府が何か言うはず、そんなことより外国人旅行者から見たフィンランド人の印象をまとめろ(フィンランドにも「日本スゴイ」的趣味ってあるのか)、店が出しているミサイルドーナツの話でも書け、終盤には軍に(ニーナいわく)「脅され」てのクビを言い渡す。認知症の進んだ父親は継続戦争の記憶からソ連パルチザンを恐れて地下に籠ろうとする。やがてカイも彼らも皆、「暴力を好む」存在の下で、すなわち「大国」ではないフィンランドで自分を守って生きているのだと見えてくる。だから大勢がジュークボックスのEnola Gayで踊る場面やソ連のしたことが明かされるのを氷上で見届けハグし合う場面に胸がいっぱいになる。

妹に「自転車に轢かれるミミズ」と形容されるニーナは、自分への暴力で服役していた元夫のタピオを拒否できない。大きなことに否定的な意見を持ち行動できても自分のこととなると難しい。イナリ湖の事件につき「フィンランドはなぜ大国にノーと言えないの」と聞き「言ったらどうなると思う?」と問い返された彼女が言うように「動けなくなるんじゃないか、心臓が止まるんじゃないかと思う」からだ。その後にニーナは意を決してノーを表明し、暴力をふるわれる。映画としては拒んで暴力から逃れられる結末の方が多いだろうけど、そうでない本作は「暴力を好む」存在は暴力をふるうものだということを描いているんだと思う。それでも暴力を許したり無かったことにしたりしてはいけない、例え子ども達…フィンランドにしてみれば国民が許そうと、と言っている。「なぜ何でも自分で決められるの」と問われた妹の「姉さんほど苦労してないから」との答えも心に残る。抗わなければ、強い者ほど強くなり弱い者ほど弱くなってしまうのだ。