ポーランド映画祭にて観賞。2023年ポーランド・セルビア・リトアニア、DKウェルチマン&ヒュー・ウェルチマン監督作品。ヴワディスワフ・レイモントの原作小説は未読。
物語は秋の章に始まる。土地の問題に縛られる農民の村で「あの雲を掴んで上っていきたい」と口にするヤグナ(カミラ・ウジェンドフスカ)は、隣で寝転ぶ、憎からず思っている、地主の息子アンテック(ロベルト・グラチク)の「ぼくも行きたい」に何も返さない。その顔にはそれこそ『ナミビアの砂漠』のある場面のような感じを覚えた。以降もそういう時が多々あった。
続く冬の章で若い女にとって彼を含む村人達は自分に何をしてくる存在なのかが示され(それはまるで家畜が喋る口を与えられたようだと思う)、春の章のアンテックの「おれが継母になれと、村長に接近しろと強制したか?」からの「一緒に村を出よう」、その後の無理やりの性行為で本当に明らかになる。映画終盤の「おれは村に従う」の「中立」の暴力には胸がむかつかずにはおれない(しかもマテウシュが言うように、彼は村人を止められる唯一の存在なのに)。
ヤグナの手による「雲を掴んで上っていく」切り紙はあの後どこかに貼られたんだったか、見逃してしまった。彼女は冒頭、母が機を織り自身は紙を切る女二人の部屋で「実家がいい」と結婚したくない旨を表明するが、村もその一部である母も彼女をそこから引きずり出す。ヤグナが実家の壁に、やがては「選んでいない」嫁ぎ先である年の離れた地主(ミロスワフ・バカ)との寝床の周囲に貼る切り紙の数々は魔除けのようにすら見えてくる。あそこであの男の「物」になるのはどういう気持ちだったろうと思う。
ヤグナが次第に胸元や脚などの肌を世界に…私達に晒すようになるのは、自分がそのような物として扱われているという訴えであり、夏の章の終わりのあの日にはそのことに抗うように鏡の前で服を着込んで首飾りをつけるが、村はそれを剥ぎ「辱める」。この場面には今も同じことが行われているじゃないかと思う。女達は周囲の結婚に介入、支配する時と貶めてもいいとなった他の女を攻撃する時だけむなしい権利を得ることができる。
雨で泥を流した全裸のヤグナが立ち上がり歩き始めるラストシーンに至り、この映画がアニメーションであることがようやくしっくりきた。ここには現実が写っているのであり、自分の体は自分のものだと言っているこの映画の主人公、実在の役者そのものではない奇妙とも言える「彼女」には誰もが代入可能である方がいいのだと。