特集上映「ベット・ゴードン エンプティ ニューヨーク」にて観賞、1983年アメリカ作品。
このような映画に接すると、それによって数多の女性が道を切り開いてくれた作品を見るのが辛いという、私の非理性的で薄情な、でも他人にとやかく言われる筋合いのない部分を再確認する。少しずつ進んでいるからこそ古臭く感じられてしまう場合もある。本作は「『めまい』に着想を得た」そうで反転により女の方が尾行し見る立場になるわけだけど、地に足ついた感は皆無だし(反転したところでそうそう主体性は得られないということを訴えているようにも見えない)、そもそも若い女性が中年男性に興味を持つ話じたい今は見る気がしない。
冒頭のプールの更衣室での、クリスティーン(サンディ・マクロード)とナン・ゴールディン演じるナンのやりとりだってそうだ。後者の「(求職活動中に胸を見せろと言われ断ったら貧乳のくせにと罵られたと聞き)貧乳じゃないのに」「仕事なんてすぐ決まるよ、若くて細いんだから(後に彼女の「美人」の基準は細いことだと判明する)」なんて発言に、リアルなのかそうでもないのか、どういう態度で取り入れているのか、当時の文化に無知なものだから分からずただ古めかしく感じられ困惑してしまった。
女がセックスを思っても世界にはよいモデルがない。クリスティーンが恋人の男性相手に「男のセックス」を語る時(女の見目の描写ばかりなのが知らねーしって感じである)、ポルノ映画に出てくる女性のような格好をして鏡を見る時、零したコーラを奢ってもらうのに関係の始まった、登場時は顔のない男性客とのモーテルでの一場面を夢想する時、素の自分はそこにない。彼女の「それが私の人生」とはそういうことだ。ポルノ雑誌の女性の表象を見る時、(ヘテロセクシュアルとされる)女性に何が起こっているのかという話である。
仕事帰りの明るい部屋で、クリスティーンはクラッカーを一枚齧ったり蓋についたヨーグルトをすくって舐めたりタバコを吸ったり、しきりに口を動かしているが大して食べてはいない(冒頭の食堂でもそうだった)。求めているものが何だか分からないがそこから一番遠いのが留守番電話の向こうの実家だということは分かる。そこから離れておくためにはニューヨークで家賃を払わねばならず、そのためには大なり小なり男に仕えねばならず、そうしているうちその中に求めているものがあるかのように錯覚してしまうんじゃないか、そんなことを考えた。
ポルノ映画館「ヴァラエティ」をルイス・ガスマン演じるホセが朝に掃除するのを見下ろす光景に『オマージュ』を思い出していたら(2021年韓国・ポルノ専門ではないが登場する古い劇場には商業エロ映画『エマ夫人』(1982)が掛かっている)、その後に見た、『ヴァラエティ』の元となった短編『エニバディズ・ウーマン』(1981)ではその「互いに隣には座らない」場内にオフショルダーの肩が剥き出しの(この映画に出てくる女性の格好はことごとく素敵!)ナンシー・レイリーとくっついて座った中年男性(の正しい使い方!)スポルディング・グレイがポルノ映画を見る醍醐味について語る。二人の間というより画面に漂う緊張感含め、ここは最高に面白かった。