難民映画祭のオンライン上映にて観賞。原題Rosemary's Way、2020年オーストラリア、ロス・ホーリン監督作品。
オーストラリアのパラマタ警察の多文化連絡調整官であるローズマリーを追ったこのドキュメンタリーを見ると、同じように人を救っている人はたくさんいても同じことをしている人は一人としていないのだと思わされる。「警察との仕事で気付いた問題を自分の時間を使って解決」している彼女の活動からは、難民や移民の支援についての数ある映画の中でもそう取り上げられてこなかった(ように私には思われる)部分を知ることができる。
ローズマリーは故郷のケニアで「夜中に寝室に侵入されてもばれれば自分が責められるので黙っている」ような境遇にあったが、1999年、39歳の時に部族の衝突で家々が燃やされ人々が殺されたことに「怒りがおさまらず」国に戻らないと決めたのだと言う。移住後の自身の体験から移民や難民の女性にとって孤立が何より害、情報が何より大切を信条に町で見かけた一人きりの女性に声をかけ、一度知り合えば電話や対面で繋がり続ける。うるさくてごめん、変な人だと思ったでしょ、としきりに挟むのが印象的で、字面だけ見ると日本社会が日本女性に言わせるエクスキューズにも似ているが、これは何かを演じてでも孤独な女性達を壁の向こうまで迎えに行き引っ張ってくる必要性の表れに思われた。
仕事や活動のストレスを解消するために公園に寝転びに行く…という言葉では伝わらないな、草地に体を押し付け鳥の声を聞くために出向くローズマリーが活動を続けるうち、彼女も周囲もオーストラリアの自然の素晴らしさに気付き癒されるという物語もある。中盤に挿入される、コンゴからの難民のパスカの三人の息子が外食したい、パソコンでゲームしたいとねだってやんわり断られる場面は、キアマのホストファミリー宅での三日間の後の彼らの変化を際立たせるためのものだろう。単なる都市と自然との対比ではなく暮らしの余裕の大切さが訴えられている。
ほとんど男性の登場しないこの映画を見ているうち、難民や移民のなかの男性問題が浮かび上がって来る。家庭内暴力につきローズマリーいわく「男性の場合もあるけど、パワーとコントロールの問題で被害者はほぼ女性」。移住先で職に就けないことから暴力を振るったり、妻だけが働いていても家事を拒否したり、オーストラリアの女性に「人権がある」ことに困惑したり。支援活動員は「男性はグループを作らずカウンセリングを嫌うので助けにくい」と話す。一方で女達の繋がりの強烈なこと、振り返れば大地に女たちが一人一人立っているという「ありがち」なオープニングタイトルが、あの撮影だって楽しかったに違いない、活力に繋がったに違いないと思い出された。