シマの唄


東京国際映画祭にて観賞。2024年スペイン/オランダ/フランス/台湾/ギリシャアフガニスタン(撮影はギリシャで行われたそう)、ロヤ・サダト脚本監督作品。

1978年のアフガニスタン、「革命の犠牲者」の娘として裕福に暮らす共産主義者のスラヤ(モジュデー・ジャマルザダー)とその家の使用人の娘でムスリムのシマ(ニルファル・クーカニ)。スラヤが受ける「キューバ国際法」の講義を受け持つ女性教授は「世には二つの階級が必ず存在する」と言うがその場に労働者階級の学生は一人しかおらず、家族や村人達が政府に殺されたから調べてほしいという彼女の頼みを受け入れないスラヤはシマの父に本当のことだと進言される。立場によって見えないものがあるから互いは互いを補い合わねばならない。スラヤとシマが車の前の座席に並んで大学へ向かう画はそのことを表しているように思われた。

見終わって、何て現実的な映画だろうと驚愕させられる。描写がリアルというのではない。例えばシマとワハブの婚約を知ったスラヤが言うことには「音楽を続けるの、今はよくてもそのうち許してくれなくなるかもよ、彼は厳格なイスラム教徒だし、男には仲間内でのプレッシャーがある」。結婚したシマが言うことには「前はこのお屋敷で料理してたけど今は夫のためにしてる、同じようなもの」。女性の権利を考える上でよくよく出てくるこれらの問題に、この映画は辿り着かない(念のために!言っておくけれど、そうした問題を軽んじているように見えるわけでは決してない)。最後にスラヤがシマを車の隣の席に乗せるのは彼女と夫をレジスタンスの潜む山まで送り届けるためだ。「私のスーフィズムは政治と関係ない、愛なんだから」と言っていたシマが「100年前のイギリスの銃」を手にとることになる。

スラヤが車を尾行されながら政府筋のアルカの元を訪ねると彼女は出国の準備をしている。「家族皆で国を捨てるの?」「死んだら元も子もない」。しかし国を出て行ける者とそうでない者がいる。このあたりからの展開や撮り方に韓国映画を思い出していたら…尤も韓国のこのような映画に出てくるのはほぼ男性だけども…後で映画祭の公式サイトを見たところ監督は韓国で映画を学んだのだそうだ。「政府が国民を殺す国」なんてセリフや、今現在をも強く訴えるだけでなくいかに多くの国がアフガニスタンを蹂躙してきたかが描かれているところもまた韓国の映画やドラマを思わせた。