大丈夫と約束して


東京国際映画祭にて観賞。2024年スロバキアチェコ、カタリナ・グラマトヴァ監督/脚本/編集/原作作品。

「あなたくらいの歳の時はこの村が大嫌いだった、私もおばあちゃんと二人きりだった、部屋だって同じ、でも私にモペットはなかった、それが失敗だったかも」とは15歳のエニョの母の言いぐさだが、町のマクドナルド目指して高速道路に乗る少年達のモペットのあまりにのろのろしていること、何とも鮮烈だった。序盤にテレビかラジオから流れる「平和とは現実的には相対的なもの」が頭をよぎった。それは死んだり何だりで俺らのほうが有効に使えると彼らがガソリンを盗むのとお年寄りを手伝っていると母が不動産を利用して搾取をするのと何が違うのか、いや平和だって確実にこちらの方がそうだと言えることがあるだろう、という問題とも似ている。

冒頭、エニョが仕事中の母の車に同乗して近所を回るくだりの、傍から見ての何てことなさはどうだ(この場面は、意味するところはあまりに違うがケン・ローチの『家族を想うとき』(2019)をふと思い出させた)。仲間内でもエニョといつも組んでいる少年の、川遊びの最中の「何の意味があるんだよ」、列車で向かい合っての「(お前といるのは)他に選択肢がないから」とは字面だけ見れば行き詰って感じられるが、この映画は彼らのそうした時間を刹那的には撮らない。年少の一人のいわゆるイキった言葉遣いにどこで覚えたんだよ?TikTokで、なんてやりとりがあるように、作中次第に「男」らしくなっていくのも、数か月でそういうふうに進むことってあるよなあとただリアルに感じられる。こうしたことに対する映画自体の視点はないが、エニョ個人にはその時、それぞれに意味があると分かる。

ラストシーン、母を置いて一人モペットを飛ばすエニョが涙を拭うところに流れる曲の歌詞…「2度と誰の涙も見ない」「もう待たない」。自分は泣こうと、あるいはこれでもう泣くまいと決めようと、ともかく人の涙は見たくないとは、母親の「こんなところ、パパ(エニョの祖父)だって出て行く」とのセリフを振り返れば、私にはこれもまた、女性が作り手になると男性の表象こそが変わるという例の一つに思われた、例えそのつもりがなくとも、自然に。またそうした映画の舞台が都会じゃなく田舎、いやその国の最も平均的な場所であるのも面白いことだと思った。