五香宮の猫


「観察映画第10弾」との文言にもう10作目かと見始めたら、これまでになく監督がカメラの内とやりとりする。外から見たり聞いたりする立場からどんどん離れている…進んでいるってことだろう。「紙を二枚もらったから監督とパン屋さんのところへ行く」と宿題のインタビューに訪れる女の子との場面では、後頭部を写して自身もスクリーンの中の人になっているのが面白い。子どもといえば小学生が先生について町歩きをする様子も楽しく、その大きな目的が「自分達を守ってくれている地域を知る」であることになるほどと思った。五香宮の近くに先生の一人が住んでいるというのには驚いた、私の両親は教員だったけど、住む地域と働く地域が多少なりとも離れるように「配慮」されていたので。

五香宮を始め癒しの館や公民館?、年金生活者が釣りをする海辺から子どもがキャッチボールをする道まで、映っているのは全て公共の場。癒しの館なる場所に配達人の女性が開けっ放しの出入口から荷物を届けに来る場面が心に残る。唯一の「私」的領域として撮り手である監督の自宅が映るのは、先に書いたように皆を撮るなら自分は家の中まで見せるという意識だろうか。嵐の日に鳴く猫を迷ったあげく玄関の土間の、いわば公と私の境界のような場所に入れてやるのがとても人間らしい行動に思われ、同時に私の住居はもちろん今の家の多くじゃあれは出来ないんだよなと残念さを覚えた。

神社ゆえの階段が言うなればとてもスクリーンに「映え」ている。日頃から野良猫に関する活動をしている男性が、避妊去勢手術のために捕獲した籠を下まで運ぶのに、いったん階段の上にずらりと並べて、下でいつも釣りをしている、平素は活動していない男性に声を掛けて手伝ってもらう場面など面白かった。人と人とが繋がっていれば、公の場における活動もそうして広がり得るということなのだ。それを踏まえれば、「私」的じゃない公の場なんだから誰かがどうにかするだろうと五香宮に猫を捨てて行くなんて行動が、いかに矛盾に満ちた非人間的なふるまいかが分かる。