
イタリア映画祭のオンライン上映にて観賞、2021年マルコ・ベロッキオ作品。
ベロッキオ家のドキュメンタリーにして、ベロッキオ(ここではマルコ・ベロッキオのこととする)が言うには彼の29歳で自死した双子の弟カミッロが主役。死産かと思われた彼に母親は三度も受洗させた、辺獄を怖がって、という姉達の証言(尤も1939年当時はそれが普通だったと言う。姉レティツィアが「でも辺獄はひどいところじゃない」と続けるのがよい)や教会による恐怖を利用した支配、癌で亡くなった父の死に際などの話に今年見たばかりの『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』(2023)の迫力が蘇る。戦後疎開先から戻っての1946年の国民投票について「父も女性達も君主制に投票してわが家は(共和制側に)負けた」とさらりと語られるのには同映画祭の今回の上映作品を思う。
「生き延びた兄弟姉妹がピアチェンツァの元わが家に集まった」という幕開けの一言を何気なく聞いていたけれど、やがて兄アルベルトの「私が『助かった』のは…」、姉達による「母は『私は死なない』と言った」などの言葉から、その意味するところは人が生きているのは生き延びてきたからだ、生とは当たり前のものではないということだと分かってくる。更にベロッキオ自身がはっきり言うにはベロッキオ家は情愛のない不毛の地であり、それゆえそれぞれが生き延びる必要があったのだとも。そこを不毛の地にしたのは彼らなのだから、何とも奇妙な話にも聞こえる。
母親の写真に『ポケットの中の握り拳』(1965)の母を重ねるのに始まる、ベロッキオ自身による作品の場面の挿入にあることを思っていたら、終盤神父がそのものずばりを言う。あなたは自分の映画でもって告解をしているのだと。『虚空への跳躍』(1980)を引いて、病気だった長兄パオロには死んでほしいと皆思っていた、彼と同室のカミッロのことを誰も気遣わなかった。カミッロからもらった手紙に返事を書いたか否か覚えていないと話した後に、精神科医が言うところの「弟さんにとってあれは自分を見てくれない母親そのもの」が出てくる『ポケットの中の握り拳』。最後に会った際のカミッロの「マルクスは待ってくれる」…その意味は「自分にはもっと大切なことがある」、その言葉を使った『多くの目、そして口』(1982)。これらの「告解」ぶりを再確認し、なぜこんなにも映画に自身を焼き付けておきながらカミッロについてこれまで家族の誰とも話さなかったのか、手紙のことを思い出しもしなかったのかと考えた時、この映画自体が最後の巨大な告解であり、主人公はベロッキオ自身なのだと思われた、私には。