デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム


DAVID BOWIE isの映像の部屋に2時間居るような内容かと思っていたんだけど、見てみたら、「映画館で見る映画」という感じがしないという意味ではそうでもありつつ、映像素材を言葉として作り手が物語を語っているという意味では全く違い、そのお話の強さは一般的な「映画館で見る映画」よりむしろ上だった。作中流れるのは新たにミックスされた曲が殆どでお話を語り尽くせるようにか尺が長くなっており、面白かった反面Sound And Visionのあたりから少し奇妙な感じにおそわれた。

この映画にA面とB面があるなら後者の一曲目はMemory Of A Free Festivalのイントロダクションで(続きは映画の終わりに高らかに鳴り響く)、インタビュアーの「人が思うよりロマンチックなんですね」への「自分はエモーショナルだ、冷淡じゃない」との言葉を経てボウイはいわゆるシリアス・ムーンライト期に入る。1983年の「ボウイ復活」を伝えるアナウンサーのシャツの黄色に当時の男性にはこの、この頃のボウイを連想させる色が流行っていたのかなと思っていたら、それは取りも直さずボウイが「人生の基盤を持っている人々」に「受け入れられ一体となった」「先んじなくなった」証であり、その後に挿入される1973年のハマースミス・オデオンでの、ラストステージだと明かしてからのRock ‘n’ Roll Suicideで「君は一人じゃない」と言う相手は辺境の人々だったが今やそうじゃなくなったということであった。

Rock ‘n’ Roll Suicideのステージ映像に挿入される無数の断片の一つに作中ここにのみ素材が使われている映画『ラビリンス』(1986)、私が一目惚れしたのは「そんな」ボウイだったわけだ。そして私がリアルタイムで買ったアルバムがBlack Tie White Noise(1993)であるのと同じく映画はその後、ぽんと飛んで同盤収録のJump They SayのMVの冒頭でエレベーターに乗り込むボウイの後ろ姿に結婚したばかりのイマンについてのモノローグを重ねる(監督もあれは兄のテリーじゃなく…あるいは彼とイマンへ向けた曲だと考えているんだろうか)。「愛は仕事をじゃましない」と悪く言えば空論を語っていたのが愛する人との暮らしのための実際的な、具体的な問題へと話が進む。自分という人間を見るようになったとも口にする。映画の終わり近くの「水中で底に足が付かない時こそ心躍ることができる」との言葉からシリアス・ムーンライト期の後に色々あったことは「分かる」が描かれず、そこに監督の心配りがあるのかなと考えた。

振り返れば最初に置かれた言葉…時間は記憶によって出現し存在するのは過去と未来のみ、「今」など存在せずそこには緊張があるだけ…にこの映画の、少なくともA面がまとめられている。「今」を出現させるために激しく緊張してきたからボウイは過去として、また未来として存在するのであり、その緊張に耐えるために作り出されたのが数々のペルソナだと言っている。(それ以前にも同じやり方が取られていたにせよ)ジギーのハマースミス公演から映画が始まる意味が分かる。その緊張が解かれるのにB面が始まり、冒頭「待っていたのに会えなかった」と泣いていた少女に、そして私達に、映画の最後にはボウイ本人が「またね」と応じてくれる。ただ見終わってふと映画『クリスチーネ・F』(西ドイツ1981年)が頭に浮かび、ボウイは「居場所を求めて移動」できる立場にいたのであって、その特権を使って辺境の若者を救ってくれたんだと思った。