タイタニックを見たくなかった盲目の男


フィンランド映画祭にて観賞、テーム・ニッキ監督2021年作。多発性硬化症で視力を失い車椅子で移動する男が遠方の女性に会いに出掛ける話。演じているペトリ・ポイコライネンは実際に多発性硬化症を患っていると最後に文章が出る。起床時にアキ映画でもお馴染みマルコ・ハーヴィストの曲が軽く流れたのが嬉しかった。

物語はヤーッコの(父親に対して言うには)「まだ生きてる」描写に始まる。一人で室内を移動し食事も取るが、落とした携帯電話を拾うのに車椅子から落ちてしまうもアラームを鳴らしたところですぐ来てもらえるわけじゃないからと介護員の訪問を待ち、彼女の「昨日は散髪したから今日は散歩でも?」「それじゃあ帰るわね」なんて決まり切った言葉にそれでも気を利かせた返答をし、走る夢に足をけいれんさせて起きるような。それは後に彼が言うように「圧し潰されそう」な日々である。しかし電話越しのシルパとのダンスで頬に、首に手を当てられ、それこそが自分にとっての自由であり、心から欲しいものなのだと当人にも私達にも分かってしまう。彼女が死の恐怖に掴まったと知り出発を決意する。

「車の窓から手を出して風=自由を感じる」に類する描写が同日に見た『ガール・ピクチャー』にもちらとあったけれど、こちらのヤーッコは一人で乗った電車の窓に手を当てて振動を感じる。その切実さ。ここからそこへ行くのには「5人の手を借りるだけ」(英語字幕にはfive passengersとあった)、まさにそうなのだ、それだけのことなのだ、それが悪意によって地獄へ逸れる。「まだ生きてる」が(「どうせなら殺せ」を経て)生き延びなければ、になるのは転換でも何でもなく実に裏表なのであり、そのことに胸が潰れそうな思いだった。

映画はオープニングクレジットが音声で読み上げられるのに始まるが、ヤーッコ自身の顔と最後に彼が「見る」あるものを除いて映像が全てぼやけているのが、駅の場面などでは単に「当事者に近い体験をする」ためかなと思っていたら、スクリーンが真っ暗になるある時を経た中盤以降、例えば段差がある!危ない!などではなく「何があるか全く分からない恐怖」を確かに生む。これは経験したことのないものだった。