ディア・エヴァン・ハンセン


元のミュージカルは知らないけれど、面白い話ながら、私にはコメディでしかあり得ない、いやあってほしい内容なので違和感を覚えながら見た。考えてみれば死人をいじくり回していい気持ちになってしまうというのは誰もが陥りそうなことだからコメディでないと耐えられないのであって、まともに扱っているこの作品は真面目なのかもしれない(しかし動画の再生回数が鰻上りに!のくだりで皆の顔が集まってコナー(コルトン・ライアン)の顔になるのは今年最高の笑える場面だった、真面目にやっているとは思えない)。

それにしても「誰もいないところで木が倒れたら何かあったと言えるのか」という古典的な問いに年に二度も劇場で遭遇するとは。一度目はジョー・キーリー主演の「スプリー」(2020)で二度目は本作、いずれも誰も見ていなかったら自分は存在していると言えるのかという意味合いで使っている。エヴァン(ベン・プラット)の、「モン・ロワ」(2015・マイウェン監督)のエマニュエル・ベルコ演じる主人公のスキー事故と同じく明らかな比喩としての怪我は、自身の存在を賭けたものである。その小さな死の回復の過程が描かれている。

尤も本作は冒頭から「目立ちたくはないけれど誰かがこちらを見て手を振ってくれたら」と歌われるように「ダメなところは絶対に見せられないけれど誰かに見ていてほしい」という生き辛さがテーマなのであって、エヴァンの母ハイディ(ジュリアン・ムーア)の歌が胸を打つのは、それがその苦悩に向かい合う、全てを見て愛して対処したいという気持ちの表れだからだろう。これは物心ついた時にはSNSが発達していた世代の話であり、エヴァン達学生の胸の内は私には思い及ばないということ、それならばハイディのような気持ちで世界に接するしかないということを心に留めた。

コナーの妹であるゾーイ(ケイトリン・デヴァー)が生前時には疎ましく思っていた兄を好意的に振り返るようになるのも、彼が彼女の「(ダメなところではなく)いいところ」を見ていたと聞かされたからだろう(実際にはそれはエヴァンの視線であり、私には少々気味悪く感じられたけれども)。物語はゾーイが「嘘から出たまこと」であるりんご農園にエヴァンを引き入れるのに終わるが、ラストカットがその農園の遠景であるのには、世界は実に、生きている人々のものなんだ、だから死んだ人の尊厳をも守らなきゃと思わせられた。