ミス・ファイヤークラッカー


特集上映「サム・フリークス Vol.12」にて観賞、1989年トーマス・シュラム監督作。同時上映に4年前の「アメリカ映画が描く『真摯な痛み』」でも掛かった「ジョージア」(1995年ウール・グロスバード監督)、こちらも新たな気持ちが起こったけれど、ひとまず初めて見た本作の感想を。最高のアメリカ映画だった。

「私たち三人が一緒に笑ってる、ずっと続くわけじゃないけど」とは本作同様べス・ヘンリーの戯曲を映画化した「ロンリー・ハート」(1986年ブルース・ベレスフォード監督)の最後にダイアン・キートン演じるミシシッピの三姉妹の長女レニーが口にする「頭に浮かんだこと」だけども(考えるとこの「幸せな瞬間」というモチーフは本作のティム・ロビンス演じるデルモントによって踏襲されていると言える)、この物語にも妙にそぐう。これもまた、性分が違うから、というより世界の方がおかしいから言い争うはめになってしまう身内三人が再会し、衝突し笑い合う話である。売札をさげた荒れた家に、ここが目的地ではない人々が集う。

まずはオープンカーでエレイン(メアリー・スティーンバージェン)がやって来る、退屈そうな顔をサイドミラーでチャーミングに作り変えて。「ミス・ファイヤークラッカー」だった彼女の、世界中を旅して回ってからの夫の財力による裕福な暮らしは、オープニングに描かれるカリーン(ホリー・ハンター)のお昼休憩の45分を1秒でも過ぎたらクビという生活と正反対だけども同じ軸の上にある。裕福でない家庭に育った女はその軸から外れることは出来ず、エレインに「美」が無ければ魚工場で働くしかなかったに違いない。だから彼女はあのドレスを、美がどうとかいうことを超えた自分だけの何かを象徴するものとして死守するのだ。

それからデルモント(ティム・ロビンス)がやって来る、衝動的に肉体労働を放り出し、目の前を通過していた列車に飛び乗って。彼もカリーンと同じ土壌にあるが同じ軸にはない。男だから、無賃乗車も気軽に出来るし大学で勉強して誰かに教えることが出来ると信じられる。三人の中で彼だけが次に向かう場所を決めており、エレインもカリーンも同じように好きなところに行けばいいと願って口にする。それは年長のエレインにとっては「分かってない」の一言であり、若いカリーンには「町で一番の美女」になれば出て行けるのかと意欲を燃やさせるものである。彼とマック(スコット・グレン)がコンテストの舞台裏で「女」について会話を交わす様子には、目の前の現実の女達に向けてはいけないと分かっている自らの古めかしい欲望を消化している向きがある。

エレインいわく「誰でも参加できるようになった」コンテストの参加者達が感に堪えない面持ちで聞く主催者側の説明…「選ばれた人こそ審査員が認める美の持ち主なのです、そして真の勝者なのです」。決勝戦での当の審査員らの間抜けな様子を映画は映し出すけれど(あんな奴らに、いや世界中の誰だかに認められて何が嬉しいものか)、そもそもがこんな言い草、デルモントじゃないけど一日でも哲学を勉強したらナンセンスと気付くだろう。コンテストの結果に言葉を失うエレインやデルモント、マックたちの方にこそ真実が宿っているが、ナンセンスが根を張る現実の前では力を持たない。

祭の晩、カリーンはかつてエレインのパレードを見た時の黄色い帽子も、5位のサッシュも、エレインの赤いドレスも、全てもう要らないと宣言して天文台によじ登り花火を見る。見られることじゃなく見ることに喜びを見出したと示すシンプルで元気の出るラストシーンだ。続くエンドクレジットの最後のキスは、同じ軸の上を生きるしかなかった女二人の間に交わされる情愛のしるしに私には思われたけれど、例えば「リトル・ファイヤークラッカー」に参加していた下の世代の女の子に自分達はどんな態度を示すことができるだろうか、そんなことを考えた。