戦場のメリークリスマス


4K修復版の2K上映を観賞。画面、なんてきれいなんだ!という感動は慣れにより数分で消える、ボウイの登場時には蘇ったけれど。見たのは何年ぶりだろう、思ったことをちょこっと書いておく。

▽ロレンスがヨノイに対しセリアズについて「彼は掃射兵で…そうだな、翻訳しづらい、『兵士の中の兵士』だ」と説明する英語のセリフから、英語を話さない者には英国兵の何たるかは理解できないということが分かる。ヨノイ「お前たちは48時間、行をするのだ」→ヒックスリー、ロレンスに「ギョウって何だ?」→ロレンス「どう言ったらいいか、空っぽの腹が精神を鍛えるのだ」→ヒックスリー「ばかみたいだな」なんてやりとり然り。ハラが「物が分かるのはロレンスだけだ」としきりに言うのも、彼が東京にいたからではなく日本語を解するからである。

▽冒頭の一幕、朝鮮人のカネモトに暴行されたオランダ人のデ・ヨンについてハラが「襲われたのに抵抗しなかった奴がなぜ死なないんだ」と言い放つが、日本男子というのはどのルートをとっても死にしか辿り着かないプレイヤーである。そんな者達が敵と居ながら「戦わず」集っている日本軍俘虜収容所というのはとても奇妙な場所に思われる。戦後に処刑の決まったハラの「私には分からない、私がしたことは他の全ての兵士がしたことと同じだ」との疑問、おそらく生きてきての唯一の「疑問」だろう、その土台がこの奇妙さである。

▽その奇妙さから映画がひととき逃れるのがセリアズの回想シーン。ここで描かれる集団の悪意や個人の苦悩にねじれはない。弟が「歓迎」されているのを壁を隔てて彼が体験しているあの有名な画面は大変に大島渚ぽいなと初めて気付いた。ところで私は作中の日本人の言動については「突っ込み」を入れたり何だりしながら見ていたものだけど、英国人のそれとなると、この回想シーンにおける残虐な場面も、デ・ヨンやセリアズのために皆が歌を歌う場面も、本当のところはここで行われているのが何なのか分からないという気持ちに襲われた。

▽1942年、寝床からハラを見上げたセリアズの「funny faceだがbeautiful eyesだな」とは日本男子の概念の具現化であるところのハラの目だけは何にも侵されていないという意味であり、その目(に象徴されるもの)が国家を超えてハラを支配するのは作中二回の「メリークリスマス」の時。一度目は酒に酔っている時、二度目は「これからも酔い続けます」と宣言する時。日本男子は酒に酔った時だけ個人になれるが、それは「死」なのだと言っている。1946年、ロレンスに会う前の晩、彼はセリアズのどんな夢を見たのだろうか。