すばらしき世界


自分は一匹狼だと強調する三上(役所広司)は、単独で生きることにこだわり生活保護を忌憚する。役所でのやりとりに倒れたり下の部屋の男にキレたりするのもそのことに触れられた時である。一方で例えば弁護士(橋爪功)の妻(梶芽衣子)の「ミシンが重かった」なんて他愛ない言葉には、それとは真逆の、世の中にあっさりと寄りかかっている姿勢のようなものが感じられる。私も割とあのようなことを言う方だけど、思えばそれは母親に教わったものだ。脚の悪かった母は重かったら持ってもらうことが大切だ、なるべくそうするんだよと言っていた。

誰かと三上とが、店長と客、ケースワーカーと利用者といったいわば名義のある関係から話をする…思っていることを言い合うことによってふっと抜け出す瞬間が作中では何度も捉えられている。確かにああいう時はあるものだが、自分を省みると、それをどう使いこなしてきたのか、あるいは必要ないならばなぜ必要ないと判断できるのか、思い出せない。機会が与えられることで身に付いてきたんだろう。携帯電話を持ってもいい、持つべきなのだと考えることと同様、生きる技術は生まれながらに備わっているものではない。

かつてのパートナー(安田成美)やTVプロデューサー(長澤まさみ)、図書館の母親、堤防の母親らが皆白い服を着ているのは、これが「白い割烹着」に生きてきた三上の物語だということを示しているように思われた。養子縁組のあっせんについての弁護士の妻の「三上さんには他人事じゃないのよね」(他人事ってこのような場面でこのように使う言葉じゃないと思う)、組長の妻(キムラ緑子)の「娑婆は我慢しても面白いことなんてないけど、空が広いって言う」(私には彼女が我慢なしに面白く生きてきたとは思えない)など、三上の立場に奇妙なほど寄り添っているように思われる言葉の数々もその文脈にあるんだろう。

私は今世紀になってドキュメンタリーの形が変わってきたと感じているんだけど、この映画の、TVディレクターの津乃田(仲野太賀)が線路=一線を越えて三上の姿を撮影した後に怖くなりカメラと共に逃げてしまう場面にはその根があると思った。他者をただ外から扱うなんて出来ないということ。結局撮る側から降りることを選んだ彼は、就職祝いの席で皆が見て見ぬふりをして生きるよう勧める中、「三上さん」の後に何を言おうとしていたのだろうか。それは彼の…映画の最後のセリフ「困るんですよ、困るんですよ」に繋がっているんじゃないだろうか。彼のような若者、いまだ定まっていない者にとって、それが「普通」で、そこに納まれない者は去るしかないなんて世界は困ると。

嵐で飛んでいかないように摘んでおけば、花なら大丈夫。でも人間同士じゃそんな一方的なことはできない。それでもその気持ちが大切なんだという話だと、三上が最後に手にしていたものが言っていた。あの結末は映画の終わりの津乃田の痛切な呟きを引き出すためのものだと考えたけれど、私としては、もっと違うやり方で(端的に言えばあっさりと)描けなかったのかと思ってしまう。