詩人の恋


「タクシーに乗れば空港へ行けるのに」。アメリカ映画などでは大抵バスはどこかへ旅立つ乗り物だが、ここでは行って帰るだけの、「遠くへ行きたい」と願うテッキ(ヤン・イクチュン)にとって悲しみと共にある乗り物だ。悲しみを糧にする詩人の彼はそれ故その中で言葉を紡ぐ。

しかし「アゴ女」の指摘によれば、当初のテッキの詩には悲しみが姿を表していないようだ。それがセユン(チョン・カラム)と出会って雄弁になる。彼の美しさと、自分と同じ「遠くに行きたい」という望みがテッキの土壌に新たな何かを蒔き、芽吹かせる。夜の闇をゆくバスの座席で並んで死を詠むのは、悲しい曲を心から楽しんで奏でる連弾のようだ。

テッキの悲しみの源は、「役に立つ」ことを是とする世の通念である。「役に立つ」は「遠くへ行く」と相反する(結局彼は役に立ってしまったことで遠くへ行けなくなる)。その反対にあるのが例えばドーナツ…精子をたくさん出すためのエイの性器や出したからの豚肉と違って「役に立たない」、ふわふわの食べ物。詩人とドーナツ、何ていい組み合わせだろう。一方で彼自身はセユンに「役に立つ」物をひたすらあげようとするのが面白い。

予告からは想像しなかった類の場面だけれど、序盤にテッキはセユンが女に股間をまさぐられる姿を見て欲情する。女は女が何かされているのを見て欲情するようにいわば教育されているが(それは大仰に言えば、いや大仰じゃないと思うけど、家父長制の存続のためだ)男にはあまりそうした機会がない。監督に言わせたら全然違うのかもしれないけれど、私としてはこのくだりに最も、女性が男性を描いた意味があるように思われた。

(以下「ネタバレ」です)

「遠くへ行きたい」という思いは多くの人にとってクソの役にも立たないものでしかない。プールサイドでそっと腿に置いた手から何かが流れ込んだかのように「どこにも行けない」と言ったセユンに対し、テッキが詩人であることを辞めると申し出る時、それを(理由はあるが)拒絶されて拳を振るう時、ああもう二人は一緒に遠くには行けないと予感した。彼が彼である限り、悲しい物語でしかない、これはそんな物語なのだ。