バッグ・オブ・ハンマーズ/ブレッド&ローズ

特集上映「サム・フリークス Vol.3」にて「セーフティ・ネット」についての二作を観賞。今回も素晴らしい組み合わせだった。



▼「バッグ・オブ・ハンマーズ」(2011/ブライアン・クラーノ監督)は、車泥棒で生計を立てている青年二人がネグレクトを受けている少年の面倒を見ることにする話。


ワッフル屋で働くメル(レベッカ・ホール)が決められた歌と踊りを制服姿でやって見せるのに、脳裏にふと「何が減るかは自分が決める」という言葉が浮かんだ。日本には「減るもんじゃなし」という言葉があるが、何が減って何なら減らないかは自分にしか決められない。メルにとってあれは減るものじゃないのだ(対して「ブレッド&ローズ」でロサンゼルスにやって来たマヤが当初就いたバーの仕事は、彼女にとって「減る」ものである)。


少年ケルシーを気にして家を訪れたメルに、母親は「その車はウエイトレスの給料で買ったのか」と吐き捨てる。兄アランとその親友ベン(ジェイソン・リッター)が車泥棒をして得た金銭を学費の足しにしているメル、紹介所で仕事を探す母、しかし失業が続けば破格の家賃も払えず男二人に「他の手段で」と体を出してみもする。これほど人々がそれぞれの「こうする」によってぶつかり合う話ってない。それって映画の醍醐味だ。


「結婚まで1%」(2017)ではブライアン・クラーノ監督のパートナーであるデイビット・ジョゼフ・クレイグ演じる男性と恋人の男性との間に子を持つか否かで決裂が生じるが、その6年前の本作でも男二人がその問題で揉める。ここには存在しない子どもと目の前にいる子どもとでは大きく違うけれども、両作品揃って余計この要素の意味は大きくなる。誰にも子を育てる問題はついて回るはずだって。


ケルシーの通う学校の社会の先生や児童福祉のスタッフが「君を見守っている」と言うのは嘘ではない。彼がその後に怪我をしていないのは先生が見ているからだろう。一人の子どもを育てるには多くの大人の手が必要、そのことが描かれている映画はいい(近年で一番感じたのは「太陽のめざめ」)。ニューオーリンズから来たという嘘、「サイダーをおごるから」、常に何かと引き換えに自分に目を向けさせようとしてきたケルシーがただ「僕を見放さないで」と言う、あの切実さよ(後に全然大人のアランも同じことを言う!のがいい・笑)



▼「ブレッド&ローズ」(2000年/ケン・ローチ監督)は、メキシコから不法入国した女性が清掃員の仕事に就き、労働組合を組織する青年と出会い、仲間と運動に乗り出す話。


「私達は勝つ」と言い続けることが大切だという話である。運動には団結こそ重要だが、難しいから、言い続けなきゃならない。「私達は勝った」ことを映画にするのもしかり。加えてアメリカで撮らなきゃならない映画があるというローチの強い信念が感じられる。


「私達は勝つ」と言えない人を責めるのはお門違いであるということも訴えている。そう言い切れるマヤが作中ぶつかるのは、「勝つか負けるか分からない」と考えないわけにはいかない同僚と、「justice for Rosa」によって生きるしかない姉のローサ(エルピディア・カリーロ)である。サム(エイドリアン・ブロディ)はビルに乗り込んだ際のスピーチで「君達は裏切りによって友人を失うという苦境にも耐えた」と言うが、その通り、そういうことは向こうのせいで起きるのであって私達のせいではない。だから同僚達は「裏切った」ローサを決して除外しない。


大企業の社員達が清掃員達を無言でまたいで通ったりゴミも何も放って帰るのは、「清掃員は言葉が分からないから安心です」と同様、同じ人間と思っていないからだろう。無言でまたがれることにつき同僚は「制服効果、透明人間になる」と言うが、マヤはそれを面白がっていたずらをする。初日に同僚が大きな掃除機の扱いを「男とダンスするように」と教えてくれるのもそう、向かいのビルの清掃員に手を振るのもそう、控室での談笑もそう、仕事中に少しでも楽しもうとする姿勢がいい。サムはマヤと初対面時の別れ際に「ありがとう、楽しかった」と言うが、「一緒にいると楽しい」のはそりゃそうだ、気が合うんだろう。


サムの言葉でもう一つ印象的なのは、やはりマヤと初めて会った時と、管理主任のランチに乗り込んだ時の「ぼくは泥棒じゃない」。持たざるもの同士でまず助け合うのが「バッグ・オブ・ハンマーズ」なら、持てる者から奪い取ろう、それが正当だというのがこちら。お腹が空いてなくてもラムが好きじゃなくても食べなきゃならないんである、あそこでサムはね。