帰れない二人


顔、顔、顔のオープニングの後、21世紀と共に産声を…とは言わないまでも世紀末に生を受けたであろう子がふと目覚める。市街地から炭鉱の町に向かうバスを皮切りに三つのパート全てが乗り物で始まる(間にも絶え間なく乗り物が出てくる)乗り物映画だが、これだけ移動してもチャオ(チャオ・タオ)はどこにも着かない。思えばそういうものかもしれない。それに三部の幕開けとなる真新しい鉄道のホームを見て頭に浮かんだことに、何もない、あるいは何かができようとしている、あるいは何かが失われた場所であっても乗り物はそうでない場所と繋がっているものだ。

「恋人」との言葉が出てくるんだから恋が主軸にある話だが、私には恋愛もの、いや恋愛要素があるようにすら感じられなかった。あまりにも二人が「中国のある部分」としてあからさまに描かれているから。非科学的なやり方でその場を収めるのに登場するビン(リャオ・ファン)は、新しいことを始めんとする裏社会の人々が必要とするも表には出せない汚れ仕事を引き受け続けている。煙草から「健康的な」葉巻に移ることなく、彼を一心に思うチャオが…尤も彼女にも似た性分があるから彼を思うのだろうが…引きずられてそちらへ落ちる。

一部のディスコシーンは白眉だ。ふところの銃を落としたビンとそれに苛立つチャオのダンスでの会話、「Y.M.C.A.」から曲を変えるようビンが指示する、先のダンスに引きずられたかのようなパントマイム的な姿、「新しいこと」である社交ダンスの衝撃、汚れ仕事の話が着いた瞬間にホールが「Y.M.C.A.」に戻るタイミング。その後の「『実際の』Y.M.C.A.」の映像も圧巻で、ここに挿入したのも分かる。胸がつまって涙がこぼれそうになった。

二部は長江の流れとチャオが持つ水の入ったペットボトルで始まる。こんなにもペットボトルが重要な小道具として使われている映画は見たことがない。一人用の水であるそれはまるで、序盤に皆と共に「いつまでも仲間」と空にした杯の代わりのようだ。出所した彼女は常にそれを携帯し、女に危害を加える男達を殴り、自分を忘れた女を殴り、これが自分の酒と言わんばかりに飲み、数年ぶりに再会したビンに見せつけ、内地も内地の男の手に一瞬、自分の手の代わりに預ける。そして三部では、水は絵に描かれただけのものとなる。

恋愛ものには感じられないと言っても、「おれとの三年は長いか?」「どう思う?」から長い時間を経ての「私は今もあなたの恋人?」「どう思う?」、「何の感情もない」と答えるまでにとらねばならなかった時間、恋にまつわるやりとりの全てが確かに分かる、というか必要であることが伝わってくる。チャオに銃を撃たせるのにビンが松葉杖を手から放す姿が妙に色っぽいと思っていたら、終盤同じ場所で全く違う光景を見ることになる、あれにも参った。