子どもが教えてくれたこと



子ども達自身によるナレーションに、始めはまるで作文を書かせて読ませているようだと思ったものだけれど、無知ゆえの偏見だとすぐに分かる。彼らは病気のことをきちんと知らされ、自分の考えを持っている。医師の真正面に座って説明を受けるイマド、「お母さんのお腹の中にいた時に病気になったんだ、赤ちゃんの時にそう聞いた」と語るカミーユ、「化学療法は嫌だから違う治療をする書類にサインをした」と話すテュデュアル。「ソーセージ」になって治療を受けるカミーユの上に舞うモビールに、「子どもとして扱う」こととそれは両立するのだと思う。
「ママは化学療法のことを分かってない」と言うテュデュアルの、病院へ向かう母親の車の後部座席から外を見る目が忘れられない。愛情と諦めと許してやってるとでもいうような感情が次々に現れる…ように私には見えた。


子どもを捉えた「一般的な」映画、あるいは「一般的な」学校映画に強く感じられる時間の感覚と、本作に在る時間の感覚とは大きく異なる。病室にも陽は差すし、先生との「この課題が終わったらお昼ご飯ね」なんてやりとりはあるが、彼らの一部である病気が画一性とでもいうものを許さない。「明日は幼稚園だから透析しなきゃ、15時間かかかるから今からやらなきゃ」、お風呂だって決められた時間に決められたやり方で入らなければならない。周囲の大人たちの不休の気の張り詰めようも手伝っているのだろう。
彼らの時間の捉え方が言葉の端々に表れている。「次の治療をするのは春かな」「うんと小さいときにフランスに来た、今は大人になった」、あるいは「死んだらもう病気じゃない」だなんて。


「太陽のめざめ」(エマニュエル・ベルコ監督/2015)の時にも思ったものだけれど、このような映画からは、子どもをケアする大人達が何と大勢いることかということも伝わってくる。ただし先に書いたような理由により、本作にはより強い選択権とでもいうようなものが存在する。
ポンプを背負ったアリブルいわく「幼稚園の時、リュックの中味が飴だって言ったら皆に追い掛け回された、すごく楽しかった、先生は嫌がってたけどね」。私がその先生だったらそれからどうするだろう、先輩の先生達の意見を聞いて、保護者の気持ちも聞いて、自分で決めて意思表明するだろうが、それでも一体どうするのがいいのかなと考えた。彼女の姉は「誰かに聞かれたら本人に聞いてって言う、私には気持ちが分からないから」と言っていたけれど。