さよなら、僕のマンハッタン



「(500)日のサマー」の冒頭、トムが勝手に想像したサマーの姿、すなわち妄想の実写が挿入されるが、この映画は「(作中の)実在の人物をモデルにした小説」を下敷きにしているという設定により、「疑わしい」場面が多々発生し、作家(=男/この物語で「物語る」のは男ばかりである)って不遜だよね!と思わせられる反面、真実だと思うことのできる場面の真実味がすごい、というマジックが起きていた。


冒頭トーマス(カラム・ターナー)が帰宅して郵便受けをチェックするとジングルのような音楽が流れ、オープニングからこちらに語り掛けていた声の主W・F・ジェラルド(ジェフ・ブリッジス)が現れるところで受けた奇妙な感じの正体がそれである。ナレーションのない場面は(あくまでも、書かれたものの中において!)真実に違いない、とより強く思える。例えばトーマスとジョハンナ(ケイト・ベッキンセール)が座位で睦み合いながらそこにいないある人物のことをずっと話している場面なんて、何だか素晴らしいものがあった。


しかし私には、ミミ(カーシー・クレモンズ)の「もう三人に声を掛けられた、全員既婚者」「あなたは彼らに毒された、彼らの勝ちね」、ジョハンナのアウティング(という言葉はまだ無かったが)により判明する、偽のパートナーを伴わなければならないような、それは今現在の日本だってそうだけれど、そういう「彼ら」の街が嫌ならよそに逃れるしかないという排他的な話に思われてしまった(「小説」は違う見方も示すけれども)。ジェラルドは「逃げたのを昔は大冒険だと思ってた、でも時が経って違うと思うようになった」と言うが、逃げざるを得ない問題が個人でなく社会によるものだったら?「(500)日のサマー」から10年経っているのに、舞台が「昔」になったせいなのか何なのか、全然時間が進んでいない、ああ「今」になってまだよかった、と思うはめになってしまった。