15時17分、パリ行き



映画の話をする時、回想シーンがよかったとか回想シーンが無いのがよかったとか言うけれど、この映画を見るとそんな考え方が馬鹿馬鹿しく思われてくる。ここに「回想」という概念は無い。全てが「道」(のどこか)だから。考えたら確かにそうだ、基準を定めなきゃならない理由なんて無い。しかし映画というものを作れば、単に細切れにした「道」を描写、提示しようとしてもそれらの間に位置関係が発生してしまう。ただしより強い「リアリティ」が付与されたらどうだろう、そのいわば「本物性」によって、そこから少し自由になれるのではないか。見終わってそんなことを考えた。


スペンサーの担任は彼はADDなのだと決めてかかる。母(ジュディ・グリア)に薬を飲ませるよう言う。体育教師は「質問はするな、答えは知らない」で話を終える。ロッカー前を通る教員は「校長室へ行け」と追いやる。これらは「道を歩こうとしない」生き方の表出である。この映画では、教員は、面倒がって道を歩かない奴らの象徴である(子どもにとって親以外の身近な大人は教師だからね)。母の「あなたが仕事しやすくするために薬を飲ませろっていうの?」(=あんたは自分が道を歩きたくないからって他人に面倒を押し付けてショートカットしようっていうの?)とのセリフは、この映画の最初のclueなのだ。


スペンサーは常に理想の地に向かう「道」を求めている。アレクとの別れに母が「飛行機に乗れば会いに行ける(=望み通りの「道」がある)」と言って聞かせると落ち着くが、テスト結果のせいでパラシュート部隊に入れないと判明する(=望み通りの「道」が断たれる)と取り乱す(母の二度の「OK?」は対応しているものなのだから、字幕が「分かった?」「大丈夫?」と異なるのはバランスが悪いと思う)。しかし断たれても断たれても、彼は諦めない。「諦めない」とは薄ぼんやりした言い方だが、この映画の彼は、死なない限り歩き続けている道を、とある決まった方向に向かわせようとする。


列車内での、いわゆるアクションシーンも良かったけれど、それよりもスペンサーが行う止血の方に重きが置かれているように思われた。「他人の傷を手で塞いで命をもたせる」なんて、書いたら何でもない、よくありそうなものだけど、ああいうふうに見せる映画って少ないから、とても新鮮だった。1,2,3で交代する場面の素晴らしさ。自分は座って担架で運ばれる彼を見送る、あそこにも「道」を感じた。


本作を見た翌日に法事のため新幹線に乗ったら車内販売員が珍しく男性だったので嬉しかったものだけど(女性ばかりじゃないということが嬉しいという意味)、この映画の車内販売のシーンは、「可愛い販売員さん」に三人が喜んでいるとか観客へのサービスとかというより、どう見ても単なるイーストウッドの趣味だった(笑)「女性によるセックスアピール(あえてこの言葉を使う)」が挿入されるのは彼の映画にままあることだけど、今回はバランスが危ういほどその回数が多い気がして、少々気味が悪かった。