わたしたち



イ・チャンドンが見出した若き女性監督が描く女の子二人の物語」というので楽しみにしていたのを、公開初日に観賞。
彼の作品に比べたら平凡だし、ほうせんかの向こうに酒瓶をこれみよがしに映すなんてださいなあと思いながら見ていたのが、次第に様相が掴めてきて、心に染みてきて、最後には自分の無力さに打ちのめされる。そんな映画だった。


直近に見た「50年後のボクたちは」と対になる映画である(対になるとは共通点があるが全く違うということ)。友達の居ない主人公の隣の席に正反対の性分の転校生がやってくる。夏休みの前と後、あちらの原題が「Tschick(彼の名前)」ならこちらは「(彼女の名「ジア」ではなく)The World of Us」でしかありえないところがまず違うけれども。
あるいは「よくある類の物語と対になる」というべきだろうか。あちらには「こうであればいい」という願いが込められているのに対し、こちらは現実とそれへの対処を示している。それなのに、私にも何か出来そうだと思えるのは非現実的なあちらの方で、現実に即したこちらでは無力なのだ。だから打ちのめされる。


ソン(チェ・スイン)とジア(ソン・ヘイン)は共に親に海へ行く約束をすっぽかされている。これは「子ども同士では海に行けない」という話である。二人が10じゃなく14なら行けたかというと、少なくとも海には「行けない」だろう。近くの川で遊んで「ちょー楽しい(字幕ママ)」気持ちにはなれるけれども、「社会」、いや我に還ると、やっぱり海に行かなきゃ気が済まなくなる。
二人の齟齬が、母親と暮らせないジアがソンとその母のいちゃつきを見てしまったことに始まることから分かるように、この物語は「自分にはどうしようもないが我慢できないこと」に翻弄され争ってしまう悲しさと無意味さを描いている。思い掛けないタイミングで海に連れて行ってもらえた(と、その時には私にも彼女にも分からない)ソンの髪が風に揺れている、あのカットは完璧だ。海を見た時、家族からソンへの愛が、今度はソンからジアへと流れ込む、準備が出来る。


この映画で目立つのは、男の世界と女の世界の断絶である。担任教師はオープニングでは声と手しか映らず、ソンの家庭はワンオペ育児にも程があり、ジアの面倒は祖母一人が見、男子児童の姿は(女子の会話に出てくる以外)わざとらしいくらい丁寧に画面から排除されている。私にはこの強調の意図が分からなかった。しかしソンの弟と友達、父とその父との関係の描写から、そちらにも苦難があることが見てとれる。「女の世界」だけの話じゃない。「50年後のボクたちは」(のような映画)の女子版や本作の男子版も見てみたいものだ(それはそれで勿論辛いだろう)
ソンの心を動かす弟の言葉には驚かされるが、こんな小さな子どもがそんなことを考えるだろうか、とは思わない。ただしそれは当座の解決法なんじゃないか、というか、そんなふうに出来るだろうか、と思いはした。


オープニングとエンディングは同じドッジボールの場面。映画の終わり、居場所の無いジアが爪をいじっているのを確認したソンが見下ろすと、自分の指先も、おそらく気付かないうちに血が出る程に痛めつけられていた。ほうせんかの汁を塗った日から遠くまで来てしまった。私達は自分で自分を傷つけていたと気付くのである。この描写から分かるのは、大人は子どもが爪をいじっていたらやめさせるんじゃなく、その理由を考えなきゃならないということだ。理由はないかもしれないけど、あるかもしれないから。
私が思い出したのは高校生の頃に頭に出来た小さなかさぶたのこと。実際何の「理由」も無くそのうち治ったんだけど、母と他の大人がえらくそのことに触れるので、不思議に思ったものだ。「そういうこと」だったに違いない。二十数年を経てこんなことに気付かせてくれるんだから、私にとっては面白い映画だった。