パッション・フラメンコ



映画はサラ・バラスの故郷カディスの陽炎に始まる。以降、彼女がツアーで回る先々に到着する度にその土地の風景が挿入される。ドキュメンタリーでは見慣れたやり方だけど、どこに行っても始めの陽炎と比べてしまう。肌に何をどう感じるだろうと想像してしまう。湿気はあっても寒くて凍りそうだろう、乾いてちくちくするだろう、等々。
同時に、最後にはカディスに「戻る」にも関わらず、なぜかどの地も同じように…「どこだって変わらな」く感じられる。中盤、サラの「これこそフラメンコ、最先端ね」とのセリフにやはりそうなのだと思う。彼女には世界中が世界なんだって。


ニューヨークはとても寒そうだった。「ローリング・ストーンズのサックス奏者(ティム・リース)と共に、男の領域だった踊りを演る」(後に、サラの公演を見た彼が「胸に手を当てて」一緒にやりたいと申し出たのだと明かされる)。木管楽器って小さな蓋を開け閉めしてるようなものだけど、その蓋の明け締めの音が聞こえたのが新鮮だった(むしろ映像内の客席に居たら聞こえないんじゃないか)。
日本はサラがダンサーとしてのキャリアを開始した特別な土地であり、触れ合う人々も優しいのに、なぜか「閉じている」印象を受けた。映像内で空席が目立ったせいもあるかもしれない。ちなみに公演がシアターオーブで行われたこともあり映るのは主に渋谷なんだけど、なぜか新宿で撮られた映像も二つあった。伊勢丹メンズ館の前の歩道と、あのきたなこい(20数年来の新宿区民の私が言うんだからいいよね・笑)「四季の道」を歩く姿。


この映画は、私がドキュメンタリーに期待する「答え合わせ」を無数に備えているだけでなく、見ながらずっと思っていたことで締められる。冒頭から、こんなにも「フラメンコ」の映画なのに「どこにでも」在り得ることを描いているような気がしていたら、サラの最後の言葉はこうなのだ…「私がウエイトレスなら、カウンターは清潔にするし、一生懸命にお客をもてなす。何をするかが問題じゃない、誰にでも力があり、責任がある。後はやるかやらないか」。それと同じ気持ちを持てるか否かはともかく、そんなふうに生きる人がいる世界っていいなと思うし、少なくとも何かをやろうと元気づけられるじゃないか。