最近見たもの



▼きっと、いい日が待っている


冒頭、盗みを働いた兄弟を引き取りに来た彼らの母親、シングルマザーが、施設の職員にきちんと面倒を見るよう責められ、「男より給料が少ないのが問題なんです(貧乏だから盗みをするのだ)」と言うと「今はそんな話はしていません」と返され、一見笑顔のような表情になる。あれ分かるなあ、ああいう時ってああいう顔になっちゃう。


国語担当のハマーショイ先生(ソフィー・グロベル、阿川佐和子にそっくり)は赴任してまず校長(ラース・ミケルセン、顔が凄い)に「授業の他に郵便物の仕分けと保健室の補助」をやるよう言われる。そんなの、字面で見ると、というか言葉にするとやっぱりおかしいよね。この映画では、その仕事ゆえ彼女は兄弟と触れ合うことになるんだけども。


ハマーショイ先生がそれこそ観客の期待するような言動になかなか出ないのは、保身のためではなく、これまで「もっといい女子校」などにいてそんな「ひどいこと」が世にあると想像したこともなかったからだろう。この映画の妙は、善を持っている人間でもやれる範囲内のことしかやれないということを描いてるところである。


▼少女ファニーと運命の旅


このタイプの映画なら、お国は違うけどミハルコフくらいやらないと!(ミハルコフのどこが「くらい」に値するかっていうと、よく分からないけど、何か一種異様なものを感じて好き)


オープニング、母の背丈を超した少女の物語なのかと思いきやそうではなく、母がしゃがんでいたのだった。以降、物理的にも(駅で行方不明になった年少の子を探す場面の映像の表す「不安」!)、心理的というか比喩的にも、少女の頭の上で全てが進んでいく。大人達にしゃがんだり説明したりする余裕は無い。だから、冒頭ファニーが木に上って手紙を書いている時には(私も、おそらく彼女自身も)特に意識しないが、終盤子ら全員で木に上ってドイツ兵をやり過ごす時には、大人よりも上に上って逃げるというのが、何だか意味ありげに思われたのだった。


冒頭、支援組織の施設で「おやすみなさい、また明日」と声を掛け合い眠りにつく子どもたち。当たり前の暮らしだが、それ以降の子ども達に「また明日」の言葉は無い。状況が切羽詰まってくるとマダム・フォーマン(セシル・ドゥ・フランス)は「早く寝なさい」と妹がベッドに着くより早く灯りを消してしまうし、終盤の家畜小屋では少年と少女の間に「明日はどうする」「考えたくない」なんてやりとりが交わされる。この後の「手紙を返すよ」(と、彼の表情)がよかった。


▼ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦


予告編から(いい意味でなく)軽いなあという印象を受けていたものだけど、見てみたらやはり、どうにも物足りなかった。品格に欠けるというか複雑さが無いというか…


例えばヤン・ゼレンカ=ハイスキー(トビー・ジョーンズ)の作中最後のシーン、彼はなぜ眼鏡を外したんだろう?「私も同じく目が悪いのに理由が想像できないから」というんじゃなく、あの後のちょっとしたサスペンスのためなんじゃないか、なんて思われてしまった。前日見た「少女ファニーと運命の旅」にも、戦争映画で見慣れた「兵隊の靴が市民の物を踏み潰す」画…ドイツ兵が子どものぬいぐるみを踏んづけるカットがあったけれど、本作にもゲシュタポが青年のバイオリンを潰すのをどアップで捉えるカットがあった。私はああいうの嫌い。「許せる」映画もあるけど、およそは「恥ずかしげもなく」という言葉が思い浮かぶ。


映画の最後に出る文章にまず「彼らは六時間立てこもった」とあったけれども、その立てこもりのパートがあまりに長いのにも辟易した。暗殺部隊の一人が言う「(自決せず)軍人なら生きて戦い続けなければ」との心が例え全員にあったとしても…いや、皆の心が私には分からなかったから、銃撃戦が単にだらだら続いているように感じられてしまった。あの戦闘描写に意味があるとすれば、ゲシュタポの命もまた軽いというのが分かるという点だろうか。ラストシーンもひどい。


フリー・ファイヤー」では全身これセックスだったキリアン・マーフィーだけど、本作の彼もすごい、としか言いようがない(笑)脱ぐタイプの映画じゃないのに体毛が濃いのが分かるのもツボだ。それにしても「恋を育む若者のふりをするから(女友達を紹介してくれ)」…は無いだろう!と思ったところに、言われたマリー(シャルロット・ル・ボン)が「あなたは若く見えない」と笑って、ちゃんと自分より年嵩の、彼と釣り合う友人を連れてくるのがよかった。この映画で一番よかったところかな(笑)