ノー・エスケープ 自由への国境



オープニング、プロダクションの映像が続いているのかと思っているとそれがファーストカットだと分かるが、タイトル「Desierto(砂漠)」がでかでかと出てもやはりロゴに見えなくもない。
とても面白く、終盤には「眼には眼を」を思い出しながら見ていた(理由は後述)。舞台が舞台だけにSF映画のようなショットも幾つかあったけれど、男二人の場面(「対峙」はしない)には山岳もの、例えばヘルツォークの「彼方へ」などが頭に浮かんだ。他に誰もいない場所で、他人からしたら(この場合、更に二人のうちの片方からしたら)実に不毛な争いが繰り広げられる。


(以下「ネタバレ」あり)


冒頭、案内人が皆をトラックから下ろす際にただ「合衆国はあっちだ」と言うのに、魔夜峰央がよく挿入していたジョーク「お母さん、アメリカって遠いの?」「黙って泳ぎなさい」を思い出してしまった。今やこれ、いやあるいは実は昔から、笑えない。
一発目の銃声に立ち止まるガエル・ガルシア・ベルナルの端正な横顔に、先日見た「フリー・ファイヤー」のシャルト・コプリーの「ハンサムは撃たれないと思うなよ!」の真意が正直掴めなかったことを思い出した。見ているとジェフリー・ディーン・モーガン演じる地元の白人男の銃の腕前はかなりのものながら、その弾がガエルにだけ当たらないので、先のセリフは映画じゃそうだからって、という意味なのかな、やっぱり、と思う。ともあれ本作は「フリー・ファイヤー」と並べて見てもいいかもしれない。どちらも限定された場所での話だが、その位置関係につき、あちらは「皆は分かっているけれどこちらに分からせる気はない」、こちらは「皆が分かっているか否かがそもそもよく分からない」。


白人男の弾がガエルに当たらないのは「メタファー」と取れなくもない。これは次第に、「ここは地獄だ、抜け出したい」「この暑さ、頭が変になる」とうめきつつ「俺の家」に入ってくる人間を排除しまくる男と、自分の命を第一にしながらも他人のそれもぎりぎりまで助けようとする男との対決に見えてくる、でもって前者は後者を殺せないと訴える映画にも見えてくるからである。白人男が女に止めを刺そうとする時、離れた場所でガエルが半ば仕方なしに照明弾を撃つと、それまで歩くのも億劫そうだった男が奮起して駆け出すのが面白い。
「対決」の結果、男は自分のテンガロンハットにもう帰り着けないが、ガエルはもしかしたら息子にもらったのかもしれない、トゲやら何やらから彼を守ったキャップを被り直してその場を去る。


ガエルと恐らく既に死体となった女が最後に辿り着くハイウェイは、やはり先日見た「午後8時の訪問者」の主人公の目の前の道路を思い出させた。それは「人の生活」のことであり、不法移民であるガエル達はそこまで自力で到着しないと生き延びられないという非情な事実の表れのようでもある(彼は砂漠においては、通りすぎる車に気付いてもらえないのだ)。