世界一キライなあなたに



見ている間中、胸がいっぱいで、今年一番じゃないかというくらいよかったんだけど、どうしたことだろう。くさい上に陳腐な言い様だけど、きっと、二人の世界が広がる様を、また心がぶつかる、いやぶつけ合う様をまざまざと見せられたから。
心を掴まれたのは、序盤、ウィル(サム・クラフリン)のかつての恋人と結婚の報告にやって来た旧友ルパートが、彼の背後に立ち初めて本音を口にする場面。終盤、ルイーザ(エミリア・クラーク)と恋人のパトリック(マシュー・ルイス)がこれまで言わずにきたことを言い合う場面もよかった。


(以下、少々「ネタバレ」しています)


お城のふもとのカフェで老人達の接客をするルイーザの登場シーンから、この映画は、変な言い方だけど、陽が照っている時はとても陽が照っている。「DVD日和」の雨、不安に降りしきる雪、「子どもの頃、世界一好きだった場所」での強風、旅先の夜の雷雨と、常に天候が強調されている。ウィルがルイーザとの最後の時に窓を開けてと頼む場面で、事故の前には外の雨に気付かなかった彼が、体の「自由」を失ってからは最も身近な「自然」に敏感になり、今ではそれを彼女と分かち合いたいのだ、とやっと分かった。
ちなみに昼間のまぶしさと異なり、室内や夜のシーンでは照明を下の方からあてているんだけど、皆ちょこっと恐ろし気な顔付きに見えるのに、ウィルの父親スティーブン役のチャールズ・ダンスだけは登場時の白昼の方が怖かった(笑)


目当ての一つだったジャネット・マクティアはウィルの母親カミーラ役での美女、いや美人仕事。「ウィル」に囲まれた机での書き物、病室にルイーザが現れると「服を着替えたい」と交代してちらと見ながら出ていく姿。彼女やウィルの元恋人は背が高く、対して「庶民」のルイーザは高くない。ウィルが車椅子生活になるのは、突如「背が低く」なることかもしれないと考えた。ルイーザが彼のベッドで横に寄り添う時、二人の高さが「揃う」。
「本当なら『あなたは金持ち好きの金髪美人に目を奪われて』『私は地味に飲み物を配ってる』はず」の結婚式の際、高々と帽子をかぶった女達の中で、ルイーザが「貧乏草」(外国ではそう呼ばないけれども!)を髪に飾っているのがよかった、私の一番好きな花(って、ヒメジョオンと見間違えてたらごめんなさい・笑)。ルイーザは旅行にこの花のピアスをしてゆき、ウィルは最後の時にこの花を枕元に飾る。


ルイーザと恋人のパトリック(ハリポタのネヴィルことマシュー・ルイス)は「字幕映画は見ない」タイプ。「字幕映画」の「逆」が「ウィル・フェレル映画」というのが可笑しい。そんな彼女にウィルが見せるのが私の大好きな「神々と男たち」、まさかランベール・ウィルソンの顔をこんなところで見られるとは思っておらずにやけてしまった。
「少しは本も読む」ルイーザが、提案を実現するため勉強や調べものに勤しむようになる。介護士ネイサン(スティーブン・ピーコック)に対する「彼は生きようとしている」は、「感情的」な言葉でもましてや「女ゆえ」の言葉でもなく(本作でウィルが生きなければならないと考えるのは、理由は様々だが全て女である)、例え駆け出しでも、経験からの自信によると分かる。この映画、原作がよく出来てるんだろうけど、ありふれた言葉によるセリフの数々がちゃんと裏打ちされてるのが面白い。


ルイーザとウィルは、「あなたが望むなら」を合言葉のように、互いに相手のためになると信じることをする。髭を剃らせるウィルの顔があんなにもアップになるのは、事前の会話から分かるように、あれが彼に出来る精一杯のことの一つだから。でもルイーザの父親(ブレンダン・コイル)の言うように、「変えられない」こともある。自分と相手の何を変えられて何を変えられないか、それが「パートナー」との関係において最も重要なテーマではないかと思う。
パトリックの「もし僕がああいう体になったらセックス出来なくなる」との言葉にルイーザは「私が上になればいい」と返すが、彼は「僕達は無理だ」と笑う。もしかして彼女が体を使うのが苦手だからという意味だろうか?一方でウィルは旅先で勝手にダイビングを予約して半ば無理やりにやらせると、ルイーザは「楽しい!なんで今までやらなかったんだろう?」となる(笑)この辺りの呼吸は相性だろうか。


ウィルが安楽死を望んでいると知りショックを受けたルイーザが「I need you」と電話をするので誰かと思ったら、相手は姉のカトリーナエミリア・クラークとジェナ・コールマンによる姉妹のお喋りが、ルイーザの好きな靴の写真であふれた自室、ウィルいわく「人生に疲れた人間の住む町」を見下ろす高台、Skypeなど、色々な所で行われ、どこでも功を奏しているのがいい。
しかし振り返ればこれは、思い合っている家族にも広げられない世界があるという話である。それはウィルと両親を見ていても分かる。この映画を見ると、一つには、人は自身の置かれた環境での日々の生活に追われているからかもしれないと思う。自分や誰かをそこからふと、押し出すことって大事なんじゃないかと考えた。