ヘイル、シーザー!



楽しく見た。描かれているのは「美しき」「映画愛」だった(カッコ付きね)


(以下「ネタバレ」あり)


主人公エディ・マニックスジョシュ・ブローリン)が、「偽りの」「見せかけの」「サーカス」なんてやめて実のある業界においで、と誘われ「楽な道」に心揺らぐも、決意を新たにするまでの27時間。その間に何があったかというと、何というほどのことはないのである、ただ全てが「映画」に通じるのである、そういう話。だから、何というほどのことが起こらないからこそ面白いのだ。
いや、「ターニングポイント」はあった。大スターのウィットロック(ジョージ・クルーニー)の「我々は資本家を太らせるために働いている」との無邪気な受け売りを聞くや彼を平手打ちし、「監督も記録係も腹の底から働いてる、映画に価値があり、それに奉仕する我々にも価値があるからだ」と言い放つ。あれがそうだった。


それを受けてウィットロックも「スターであることを証明」する。「Hail, Caesar!」の撮影現場では、スタッフ皆が彼の演技に感銘を受ける。しかし、例えば「はじまりのうた」では、アダム・レヴィーンの歌の力が「まさにそこにある」ことが物を言うが、この映画にそんなものはない。
コーエン兄弟の作風かなとも思うも、撮影時には全然ダメだったドイル(アルデン・エーレンライク)が、カルフーン(フランシス・マクドーマンド)が編集した映像の中ではどう見たってきらめいていることを考えると、この違いは、スターの才能と監督の指導、加えて照明やカメラ、編集など多くの人の手が加わった「映画」(に近付いたもの)の方が、「撮影風景」よりも強い、ということを表しているようにも思われる。尤も単に、スターを演じる役者の中でエーレンライクだけが「手垢がついていない」から、私の目に新鮮に映ったのかもしれないけど(笑)


冒頭、ナレーター(マイケル・ガンボン!クレジット見るまで分からなかった)が、映画制作は「『story』を作り出す仕事」だと言う。マニックスが「聖書を読めば分かるが映画にするとより分かる」と言う時の「聖書」、ローレンス・ローレンツ監督(レイフ・ファインズ)がホビーに説明する「あらすじ」などに手を加え、人々に「story」として「認識」させるのが映画作りということになる。
私としては、脚本家達(クレジットの役名は全員まとめて「communist writers」)の犯行のくだりは、「赤狩り」が背景にあるということよりも、「物語を作っているのは我々なのに、正当な報酬をもらっていない」との不満から自らの仕事を放棄してしまう、という要素の方に引っ掛かった。「『我々なのに』という矜持」についての皮肉と、「誰もが正当な報酬を受け取るべきだ」という主張とが、微妙なバランスで交差している気がして。


待つ男と待たせた女がそれぞれの「得意業」をやってみせる姿のチャーミングなこと、私はこの場面が一番好き。あらまほしき「映画愛」が詰まってるもの。この場面の魅力は、この映画自体の魅力に通じている。
他にも、「manufacture」たる撮影所における、七面倒な話を持ち掛けられた法律家が楽しそうに仕事に取りかかる姿や、編集の機材の細部のアップなどもいい。撮影シーンがいちいち長いのには、カウリスマキの映画のライブシーンの長さを思い出す。シンプルな「愛」ってことだ。