山河ノスタルジア



オープニングは「1999年」。小学校の教員のタオ(チャオ・タオ)と労働者のリャンズー(チャン・イー)、資本家(の卵)のジンシェン(リャン・ジンドン)との「三角関係」の描写に、昔の日本語としての「マドンナ」という言葉を思い出す。タオの「結論」にリャンズーが別れの言葉を投げ捨てる「ディスコ」の場面は、セックスの代わりに踊りで体の相性が確かめられたかのようだった。
この街の誇りはこの山河、との歌や踊りの後に、「ミレニアム」に湧く群衆がスクリーンいっぱいにひしめくのにはどきどきした。織り込まれる、当時撮っておいたのであろう「本物」の映像が見事なアクセントになっている。この時の中国は「赤」で溢れている。タオもいつでも赤いコート、ジンシェンが赤い車を買うのはそのためか。一方のリャンズーは赤い髪留め、すなわち彼女自身が遣うものを買う。
このパートの終わりにタイトル「山河故人」が出た時には、そっか、これまでが「前振り」なのか、でもってこれが原題なのかとぞくっとした。


「2014年」は、出稼ぎ先で苦労しているリャンズーとその妻子の描写に始まる。彼の炭坑での日々を表すカットが黙々と重ねられる様が素晴らしい。妻が借金を頼みに出向いた結婚式場(中国人女性と西洋人男性との挙式)での登場時のタオは、いかにも楽しそうで華やかである。外国の鞄に車、「iPhone」。タオがリャンズーの家を訪ねる場面において、「1999年」のパートでは、三人とも、もっと何か無いものか(他の楽しみや男や女などね)と思ったものだけど、そうだ、彼らには「他に無かった」のだ(物質的な意味じゃなくね)と気付いてはっとした。
タオと、何年かぶりに呼び寄せた息子との「なぜ特急じゃなくこんなのろい列車に乗るの?」「長く一緒にいられるからよ」との会話には、大学受験の時に読んだ現代国語の文章を思い出した。快適な時間を買うなら各停列車の方がいい、というような内容で、そうだなと思ったものである。餃子を(口まで持っていき!)食べさせ、歌を聞かせる母の振る舞いに、いいじゃないか、数日、いや数時間くらい、こうしたっていいじゃないかと思う。
このパートで目立つのは、やたらと「身分」を求められるということだ。タオは出掛ける父親に「身分証は持ったか」と確認するし、後の病院でもまず身分証をポケットから出す。ジェット機でやって来た息子を迎えに出向くとサインを求められる。これは「そういう時代」だということか、それとも何らかの意味があるのか。


この映画では、「家の鍵」が文字通りキーとなっている。タオが「あなたの家の鍵」と息子のダラーに渡したところで主人公は彼女から彼へと移り、舞台は「2025年」に飛ぶ。ここから映画はぐんと面白くなる。いけしゃあしゃあと、ごくごく普通に、「未来」を描くのがまずいい。ここに至り、何て「紋切型」なんだと思っていたこれまでのパートでも彼らは生きていたのだ、このパートが面白いのはあれらがあるからなのだと気付く。過去に遡るほど、誰かの記憶として単純化されているからあのような描写になるのかもしれない。
「赤」など全くない、「青」いオーストラリアで、中国語を学び、中国人が集う店で働く青年「ダラー(「米ドル」)」(ドン・ズージェン)と、マクドナルドの飲み物を手に中国人同士で集まる父親のジンシェン(老けメイクが少々わざとらしい・笑)。英語の分からない父は、息子からのメールを中国語に変換して読む。
ダラーの「僕の家の鍵」、しばらく後のシルビア・チャンの「あなたは自由よ」に涙がこぼれた。父が「銃を持っていても撃つ相手がいない」「学位もなくてどうする」などと口にする理由を息子は知らない、でも、でも息子は「自由」なのだ。


「西」には行かなかった、生まれた街にずっと居たタオが「Go West」で踊るラストシーンは、私には優しく暖かいものに思われた。「このような話」なのに、作中、「2025年」が最も自由に、風通しがよく感じられた。それは私が恵まれているからか、あるいは、人は年をとるほど楽になる、「思い出」はどうにもならないけれど「これから」なら多少はどうにかなる、と思っているからか。