最近見たもの



モヒカン故郷に帰る


所用の後に初めての109シネマズ川崎で見たら、前の回で舞台挨拶があったようで、劇場を出た所にサイン入りポスターが。残り香のようで嬉しい(笑)


オープニングタイトルの背景と最後の最後は、海をゆく舟。軽トラや終盤「独走」するアレまで、横移動の似合う映画だ。海をゆく舟は、遠くから見るとただただすーっと滑っているようだけど、乗ってる身にはきっと、ずっと揺れている。それがこの映画の中の人生かな、などと考えた。半ばすぎ、松田龍平演じる主人公が「一人で抱えこまなければならないこと」が発生した時…いや、すごくくだらないことなんだけど、そこから映画が立体的になった気がして、ぐいと引き込まれた。ちなみに病室で柄本明の動きに千葉雄大が体を震わせるのと、次の場面の松田龍平の「転んだじゃないか〜」はアドリブのように見えた。


見ている最中、隣のお二人がどうやらロケ地に親しいようで、あっ!あっ!と何度も指差すのが楽しかった。ちなみにうちらが唯一「あっ」と小声を出してしまったのは、病室に置いてあったくらづくり本舗の紙袋(笑)私は買ったことないけど、埼玉の人がよく使うの、知ってるから。


▼ミラクル・ニール!


このご時世にこんな映画が劇場で見られるなんて、そういや昔はこういうの、あったよなあ、なんて思ってしまった。軽くて軽くて。犬のデニスが「登場」するや面白さも加速。


冒頭の犬に関するやりとりに、今ふうに言うなら「パイソンズみ」を感じ、以降は「せんせー、うんこ」「先生はうんこじゃない」的な言葉遊びと(主人公が「国語教師」なのも面白い、かあ?)映像の楽しさが、絡まないと思いきやたまに絡みつつ、最後の「ミラクル」まで一気に見せる。ケイト・ベッキンセール演じる美女が空虚なのはパイソンズの映画じゃ仕方ないけども(笑)また「冴えない男」が何かを乗り越えて「美女」(どちらも明らかにそういう設定)と結ばれる話か、とは思ってしまう。


優性思想を持つ者が「劣る者を始末する」というお話の合間に「地球上のあらゆる問題に取り組まんとするアメリカ大統領」が出てくるのは、「イギリス人男性を憎むアメリカ人男性」というギャグの大ボスとでもと受け止めていいのかな(笑)


▼孤独のススメ


始めに出る文章は、バッハによる「演奏は難しくない、正しい時に正しい鍵盤を叩けばいい」。「恋するリベラーチェ」が劇場公開された時に読んだ記事にあった、マイケル・ダグラスの役作りを思い出してしまった。すなわちその行為は「演技」に通じるということ。


冒頭、こういう感じの映画か〜などと思っていると、意外なところをマッサージされていい具合に心が緩む。愛や友情、一人とつがい、いやいや「つがい」じゃなくたって、何人だっていいじゃん、そういうふうに色んな境界がぼやかされていく。最後は大泣きしてしまった。


映画において「家」は常にただの「家」ではないけれど、ここでもそう、あんなに近くに住んでいるのに知らない隣人の家へおそらく初めて足を踏み入れる場面の面白いこと、それは勿論、彼の「心」なのだから。それにしてもこの「隣人」の口角の下がり具合が見事で、もう「美しい」と言ってもいいくらい(笑)


▼COP CAR コップ・カー



ケビン・ベーコンが主演・製作総指揮を勤めた作品(その名、いや皆の名がでかでかと出るオープニングクレジットがかっこいい)内容を全く知らず、始めアダム・ウィンガードのやつみたいな映画かなと思ったら、絞まり具合やちょっとしたセンスとは似てて、でもこっちの方が随分とぼけてて、面白かった。


オープニングは鳥が囀るのどかな町の風景。カットが替わる度に人気がなくなり、少年二人がちんこ、おっぱい、まんこ、などと言いながら歩いていき、有刺鉄線を越える。家出したために見つからないよう、人気のない方へ向かう彼らと、違う理由で人気のない所へやってきたベーコンとの邂逅。子ども達が再び「道」へ出た時、ああ彼らは家出中だから今、親は居ないんだと気付く。更にある人物とのやりとりから、「父親」が居ないのだと分かる。一方大人のベーコンは、困ったとなると最短距離をひた走り人里へ出る。


この映画での銃撃戦やカーチェイスが、ためにためての、にも関わらず「満を持して」という感じを受けないのは、始めは銃や車を使えない子どもの「成長」(と言うのか)に沿った「自然」なものだから。それにしても、懐に「一日二センチ」の非常食と財布を隠し持つ、「Fuck」だけは口にしない、いやしなかったハリソン少年が「100」を出す時のあの顔、行く手に町の灯が現れるラストシーンの素敵なこと!


スポットライト 世紀のスクープ


冒頭早々に、メインキャストのマクアダムスにラファロにマイケル・キートンなんて豪華キャストが揃い踏みするこの職場の、しかし地味なこと。新聞社だけでなくどの職場も、私が居たことのあるような「普通」さで出来ていた。スタンリー・トゥッチ演じる弁護士の事務所に、多忙そうだけど居つきたいような雰囲気を感じていたら、こじつけのようだけど、最後に再度、この事務所が出てきた時にその理由が分かる。


面白いのは、第一に、これが「よそ者」の「あれはどうなった?」が切っ掛けで掘り起こされる、超、超地元の問題であること(被害者の話を聞く店の外に当の新聞を売っていたり、近所に「療養所」があったり、出身校に加害者・被害者が存在したことに気付いたり)。「よそ者」を演じるリーヴ・シュレイバーがよくって、彼のイメージが「完全なるチェックメイト」と本作で覆った。第二に、「新聞記者」の彼らが最終的に目指すのは、「個人的な事件」ではなく「whole system」の弾劾であり、そのことが、映画が終わった後にずらずら出るあるもので実感できるところ。


被害者団体のメンバーの「だから『サバイバー』なんだ」というセリフは重い。作中サバイバーに取材をするのは主にマクアダムスとラファロで、話を聞く二人の顔のアップが何度も挿入されるんだけど、私は性犯罪の被害に数え切れないほど遭っているけど、ああいうふうに聞く彼らに話をする気にはあまりなれなかった。それは、要するにあれらは話をする気になった側の人々だということなのか、それとも作中の「段階」による(ラファロは当初、他社に出し抜かれないかということばかりに気を取られている)のか、あるいは「国民性」か。