さざなみ



オープニングがちょっと面白い。映写機のかち、かち、という音と共に、黒い画面にクレジットが現れる。キャストは「シャーロット・ランプリング」と「トム・コートネイ」の二人のみ。日付が替わる度にスクリーンに映し出される、常に少し傾いているように見える遠景は、「月曜日」と「土曜日」とで傾きが違ったろうか?


連れ立って散歩する犬を「元の道」に呼び戻すランプリングの言葉は厳しく聞こえるが、次のカットでは笑みを浮かべながら歌っている。郵便配達人との会話から彼女が教師だったと分かり、先の声はそういう喋り方なのだと思う。パーティ会場の下見の際の「ここでトラファルガーの海戦の祝宴が盛大に行われたのです」「ネルソンは殺されたわ」「でも戦争には勝ちました、我々は戦勝国です」というやりとりは明らかに「結婚生活」を指しているが、「ネルソンが殺された」ことを心に留め置くのが(この日でなくとも多分こう口にしたに違いない)彼女の生き方なのだろう、教師に大切な資質だとも思う。


コートネイ演じる夫ジェフは「(自身の結婚式で)主賓席を作るなんてブルジョアの悪癖だ」と言い、ケルアックを嫌い、気に入らない女をレイシストファシスト呼ばわりする。見ながらつい「トム・コートネイ」(の演じてきた役柄)も重ねてしまうが、不思議なことに、ランプリング演じる妻ケイトを見ている時にその感じは起きない。ランプリングの出ている映画は、ずっと「ランプリングだ」と思いながら見ているのにも関わらず、彼女は常に「新しい」。何か演技の方法に理由があるのだろうか?


夫を送った後、ケイトは「過去」の仕舞い込まれたロフトに分け入る。階段を引き下ろす際の苦悶の表情、上る際の細い脚の頼りない足付き。見つけた写真を映写機に掛けると、スクリーンの右側に現れては消える「カチャ」、左側にそれを見続けるケイト、彼女があることを確認した後、写真を映していた布地が画面一杯に広がり、次いでケイトの顔が大きく映る。不意に、生きるってこういうことなのだと思った。映画において、こんなにも「生きている」人を見たのは初めてだ、とでもいうような感じを受けた。


そう感じた理由が、最後に分かった。ジェフはパーティのスピーチにおいて(彼は全篇に渡って実に面白いことを言う)「年をとると選択の機会が減る」と口にする。これは、選択の機会が無くなっても生き続けなければならない者の物語なのだ。この後に「(恋の炎が燃え尽きた後の)煙が目にしみる」で二人が、いや「全てのカップル」が踊る場面はとても意味深く、胸が痛かった。車の中で夫の髪を撫で付ける妻の手を思い出し、煙を扇いで脳裏に炎を見ているんじゃないかとふと考えた。


「出会った時、私はまだ10代、あなたはタバコをくわえた渋い大人だった」などのやりとりから、夫婦の年齢差は10歳以上あるだろうか、そのせいもあってか、どこか「介護もの」の趣もある。手の怪我を看る様子や(妻はきちんとしているのに)ブリーフ一丁の姿、「レイシスト」の女性が声を掛けたり、元同僚が「様子が変だった」と心配したりするのは、単に報せを受けてのショックのせいか?流しにきちんと入れられていない皿を手にケイトが顔をしかめるのは、またこんなことをして、という意味か、それとも前はこんなことしなかったのに、という意味か。


ところで、ジェフが夜中にロフトに上ってごそごそしていても起きもしなかった犬が、なぜケイトが上ろうとする時にはあんなにも吠えたてたのだろう?この映画には少々オカルトめいた部分がある。前述の場面でケイトがスライド写真を見ているうち、気付くと水の音が…というのは彼女の心の中に聞こえているのだとしても、夜中に夫が閉じこもったロフトを見上げて手を伸ばす時、戸外の音だと思っていた風がどこからか吹いてきて、その髪が揺れるのだ。まあこの映画で恐ろしいのはただ一つ、ラストシーンの後もずっと、あの家で二人で暮らすに違いないのを想像することだけども。