ブリッジ・オブ・スパイ



映画は「鏡」で始まる。一人の男の顔が映っており、カメラが引くと、「彼」はそれを見て自画像を描いているのだと分かる。「反転」していない画に、私などは「そのまま(見たまま)」しか描けないだろうけど、こうした人にとって鏡とは参考なんだな、と考えていると、更にカメラが引いて、鏡の中の彼と画の中の彼、鏡を見て画を描いた彼の後頭部と、三つの「彼」が一度に収まる。このどこか空恐ろしい感じに浸る間も無く、この男が電話を受けてひと仕事済ませ「アメリカ合衆国」に捕らえられるまでの一幕でぐいと引き込まれる。この時点でもう、懸命に見ても指の間から砂が零れ落ちてしまうような、「たっぷり詰まった」映画だと思う。


トム・ハンクス演じる弁護士のジェームズ・ドノヴァンが登場する。「ボウリングのストライクは『一』であり(ピンの数である)『十』じゃない」と例を挙げ、「依頼人が一つの事故を起こしたら、被害を負わせた相手が五人であろうと、自分にとっては『一件(one thing)』だ」と声を荒げる。これに沿うならば、この映画は彼が「一件」を解決するまでの話である。
冒頭早々、ドノヴァンが先のルドルフ・アベルマーク・ライランス)から「もしアメリカのスパイが捕まったら待遇をよくしてやりたいでしょう?」と言われた後に、安モーテルに集められた若者達が「CIAのために働くのだ」とスパイに育てられてゆくパートが進む。中盤からは、やはりドノヴァンがCIAから「ソ連は『壁』の建設を考えているそうだ」と聞かされた後に、「ベルリンの壁」が作られ東ドイツにおいて「アメリカ人」のいち学生が拘束されるパートが進む。この、後のある時点で「一件」となる各部分の「同時進行」が実に効果的で、「一件」にはこんなにも奥行が在り得るのだとつくづく思わされる。全くもって与り知らない所で進行した事から成る「一件」につき、ドノヴァンは責任を持ってあたる。


法廷での判事の言葉から、ドノヴァンの娘が通う公立学校の子どもや教員が皆で「忠誠の誓い」を唱えるシーンへの切り替わりは大胆で印象的だ。父親であるドノヴァンは「アメリカ人をアメリカ人たらしめているのはただ一つ、憲法を守ることだ」とはっきり口にする。アベルに「私がスパイかどうか気にならないのか」と問われると「検察は検証するのが仕事(すなわち、それに対し弁護士は法に則って弁護するのが仕事)」と返す。この前に置かれた「それがアメリカ人のやり方だ」というセリフは単なる言い草ではなく、彼の信念のことを言っているのである。
いわばこの映画は、究極の「仕事」映画だと言える。そんな彼だから、家に銃弾を撃ち込まれた際に「そんなこと(「ソ連のスパイ」の弁護)はやめろ」と突っ掛かってくる警官にはただ「警官の勤めを果たせ」と言い、東ドイツで秘書?として働く青年にはまず「仕事は好きか」と聞き、映画の最後、信義を守った人物に対して「自分が確かなら人にどう思われてもいい」と声を掛けるのだ。見ているうち、それは「柱」であり、「柱」だけの家には住めないかもしれないけれど、「アメリカ」の地にしか立たないかもしれないけれど、全ての「仕事」には則るべき信義があり、皆がそれを守ればこの世界は「善く」なるのでは、なんて考えてしまった。


この映画は、「保険」とは何なのか、その「正しい使い方」、すなわち他の領域とどのように重ねれば有効なのか、ということについての映画でもある。作中初めて笑みを浮かべたアベルから「不屈の男(standing man)」の話を聞いたドノヴァンは、「裁判を長引かせないでくれ」としか言わない判事の自宅を訪ね、「法の範囲を越えた話ですから」と、専門分野である「保険」を持ち出して説得にあたる。「nice speech」とすげなく返すだけの着替え中の判事が、濁った鏡から次第にきれいな、大きな鏡の前に移動してゆく演出がいい。終盤にソ連大使館を訪問した際にもドノヴァンは「保険」めいた話を口にし、それがおそらく決め手となる。
心に残ったのは、この映画における「不屈の男」がその力を発揮するのが、アベルの話の中の男にせよドノヴァンにせよ、相手次第じゃないか、自分にはどうしようもないじゃないかと思ってしまっても仕方ない状況下であるということだ。「不屈」とは、そういう時にこそ諦めず全力を尽くすという意味なのだ。そして、エンディングの文章でもって、アベルもまた「不屈の男」だったと分かる時、「不安なんて役に立つか?」という彼の決めゼリフは違った色を帯びて感じられる。


映画の最後に映るドノヴァンの横顔はやるせないものだ。いつもの通勤列車から目にした「壁」を自由に飛び越える少年達の姿に、ベルリンで見た光景を思い出したからだ。それは彼が「橋」において、アベルが「抱擁されるかバックシートに座らされるだけか」を見届け、立ち尽くすことしか出来なかったのに似ている。どうしたって手の届かない場所というのがある。