ヒトラー暗殺、13分の誤算



シネマライズの入口の頭上に、山田洋次が本作に寄せたコメントが目立っていた。「どうしても創らねばというドイツ映画人の使命感が」云々。彼の「小さいおうち」はよかったなあと思いつつ見ているうち、どちらにも似たようなことが描かれていると気付く。戦争に向かう時、国民は全然苦しそうじゃないということだ。あちらは苦しくはなかった人達の話であり、こちらは苦しかった人の話だけども。



「彼は昼間には職場を抜け出して海に泳ぎに行ったが、
 夜には遅れを取り戻した」
 (ナチスがスイスより取り寄せた、ゲオルク・エルザーについての報告書)


オープニングは一介の家具職人ゲオルク・エルザー(原題は「Elser」)がビアホールに設えられた演説台に爆弾を仕掛けている姿。手に滲む血と顔一面の汗に、それじゃあ彼はいつ「涙」を流すだろうなどとくだらないことを考えた。映画は早々にこちらに、というかナチス側はまず彼に、その所業により七人(後に八人)が亡くなったことを告げるが、彼が一筋の涙を流すのは終盤ある人物に向けて、遺族と自身の家族や恋人への思いを口にする時だった。


考えたらそういう作りしか「ありえない」けど、この映画の殆どは回想シーンである。最初の回想において、エルザーは海に一人浮かんでいる。それは「自由」を表している。捕まって理由を問われた彼はまず、「自分は自由だったのに」と言うのである。
久々に故郷に帰ると、子ども達が戦争カード?で遊んでいる。少年がやって来て、ユダヤ人と暮らす女のことを父親が悪し様に言っていると口にする。エルザーはそれをたしなめる。しかしエルザーが廃墟寸前の家に入る時、柵が彼と少年を分け隔てる。そこからは転げ落ちるようだ。村の人々は、先の女が「私は豚です」と書かれた札を提げ座らされているのを見物したり、「ドイツの戦車」なんてナチス映画を笑顔で観賞したりするようになる。


エルザーとエルザの出会いの晩、店にナチスの党員が来るなり「44パーセントの支持率で我が党が勝った」と気炎を揚げる。嫌気が差した二人は外へ出て、そのこともあり意気投合する(この映画、「ラブシーン」において二人の手が何をしているか映さないのが上手い/またこんなにも印象的な主人公の顔を、とあるカットで「見せない」のも上手い)
この時には「似た者同士」だった二人の間に、始めはわずかな、次第に大きな溝が出来てくる。強制労働所から逃げてきた友人にエルザーがパンをやると、彼女は見つかったら大変だと言い、彼は「俺のパンなのだから構わない」と返す。エルザの夫に関係がばれ「一緒に逃げよう」という話になると、彼は隣町やスイスを挙げるが、彼女は「ナチスの工場なら仕事がある」と返す。次の場面でエルザーは「仕事」に取り掛かる。彼女の「変化」が最後の一押しだったわけだ。


スイスでターザン映画が見られることが「自由」の象徴であるかのように語られるが、これはワイズミュラーのターザンのことだろうか?リンク先によると淀川長治は「おばさん達がターザンの男の裸、これが魅力があったんですね」と言っているけれど、本作ではジェーンの裸が売りのような言い方をされていた。私は「リベラル」な人の一部が性的搾取にはえらく鈍感であることにつき、性を娯楽とするのがお上への反抗だったからと思ってるんだけど、そのことにつきまた考えた。