グッド・ライ いちばん優しい嘘



最初に提示されるのは「スーダンロストボーイズ」について説明する文章。終盤、その一人だったジェレマイアは「私達はもう迷って(lost)はいない」「アメリカのおかげでもあるが仲間のおかげでもある」と言う。そして最後に、「彼ら」を演じた「彼ら」の姿がスクリーンに映し出される。
この映画を見ると、世界と世界がぶつかるところに在るのは「国家」ではなく常に「個人」だということが分かる。「余裕」のある側には「選択肢」があり、始めは考え無しでも変化して支え合うようになる者もいれば、塀の向こうから眺めて終わりとでもいうような者もいる。


本作が昨今の数多の「移民」映画と違うのは、冒頭30分の、予告編からは想像し得ない内容である。いつものように遊んでいた子ども達が、突如家族を殺され村を破壊される。それは「第二次スーダン内戦」によるものだが、彼らにそのような「視点」は無い。先祖についてと「自然から身を守り、自然を利用する」ことしか教わっていない兄弟は、生死の狭間を何千キロも歩いてケニアの難民キャンプに辿り着く。更に場面は「13年後」に飛び、ただ待つことしか出来ず諦め掛けていた彼らはようやくアメリカへの移住の機会を得る。
この「30分」ゆえに、この後も映画は大仰な「カルチャーギャップ・コメディ」にならない。マクドナルドのドリンクについてきたストローに戸惑う様子には、彼が枯れた植物の茎で地下水を飲んだ場面が思い起こされるし、牧場で「危険な動物はいますか」と訊ねる様子には、生きるためにライオンの獲物を奪った場面が思い起こされるから(更に後に分かることには、彼はライオンに襲われ兄弟に助けられてもいた)。惜しむらくはこの「30分」が、作中最も映像として面白くないということかな…


「The Good Lie(原題)」とはマーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」に出てくる言葉。「お金がかかるから、一人ずつ」通うことになった学校で、マメールは国語の授業でこの本を読み、「よい嘘」というものがあることについて考える。「ハックルベリー・フィンの冒険」同様、ボーイズは当初「世界を生き抜くための嘘」、すなわち金銭を得るために「偽りの笑顔を見せること」「馬鹿なボスに従うこと」等をしなければならない(尤も余程我慢出来ない時には拒否する)が、マメールが授業中に発言したように自らが「変わる」ことで、「よい嘘」を利用するまでになる。
学校に通うことにより、文学を学ぶことにより、あるいは「物語」に触れることにより世界が広がる、というのがこの映画の柱の一つだ。とある社会で働くのならば、その前にその社会の学校で学ぶ必要があるのではないか、そもそも異世界に到着した翌日から働くだなんて過酷すぎるのではないか(作中の彼らは即座に職に就かねばならない理由を「政府に飛行機代を返すため」と説明される)ということを思う。このあたりはちょっと、フィリップ・ファラルドー監督の前作「ぼくたちのムッシュ・ラザール」と「移民」だけじゃなく「学校」つながりでもある。


ハックルベリー・フィンの冒険」に触れ「よい嘘」につき考えるというのは、「物語」に触れ「応用力」とでもいうようなものを身につけるということだ。これは映画を見た時にも起こることなので、本作は「映画を見る」ことについて期せずして語っている映画であるとも言える…のが面白い。尤も単にスクリーンを眺めているだけでも、例えば仕事を始めた三人がピザを食べながら「鶏はなぜ道を渡るか」のジョークに笑うところなどぐっとくる。この場面、なぜか涙がこぼれてしまった。
予告編では「主役」のように見えるリース・ウィザースプーンは、実際には狂言回しの役どころ。「美人」というより生活感が表に出た彼女(いいと思うね)が仕事絡みやら何やらで接触するのが皆ちょっといい男で、もしかしたら全員とセックスしてるんじゃないかという風情がこうした「アメリカ映画」には珍しく楽しい。