刺さった男



とても面白かった。予告編から連想した円丈の「ぺたりこん」(「中年サラリーマン」の手が職場の机にくっついて離れなくなる噺)と全然違うけど決して遠いところにあるものではない、という感じ。見終わって、なぜ「今」この映画に似た新作落語が無いんだ、あっても全然おかしくないのにと思った(そんな社会的な落語は求められていないか・笑)


オープニング、領収書?の束に続いて映るのは、目覚ましが鳴る前からベッドの中でぱっちり起きているルイサ(サルマ・ハエック)の顔。裸の彼女に対し、隣のロベルト(ホセ・モタ)はパジャマ姿なのかと思いきや、布団を跳ね除けるとおそらく昨日のシャツのまま。軽い衝撃でもって映画に惹き込まれる。
程無く判明する、ロベルトが「人生の輝き」(原題)を世に放ったのが「17歳」というのにショックを受ける。その三倍ほど生きてきた今に至るまで、「輝き」が無かったということだから。エスカレーターの「逆行」に始まる悲劇は、「夏の匂い」というセリフと一陣の「風」に収束し、物語の最後、涙の数々が実に「無意味」なものであることにもショックを受ける。


出勤前の夫婦の「愛情表現」の描写が、そんなに時間を掛けなくても十分なのに、というほど長いのは、人が(愛する相手からの)「愛」だけでは生きていけないから。お上が家族愛を謳おうと、それは幸せの十分条件ではない。
「妻は教員で、普段は子どもを相手にしてるから優しいんだ」というロベルトのセリフが何とも頓珍漢で、あれほど愛し合っていながら「ずれている」のが悲しくも面白い。ルイサが「教員だけど、今は非常勤」と言うのにも、何か社会情勢が反映しているんだろうか?夫が失業中に自ら非常勤を希望することは無さそうだから、彼女が勤務形態を変えたのはいつどのようにだろう、などと考えた。


棒一本で浮かび上がる、世界のシステムの全て。普段気付かずとも世界に「在る」ものが、ひょんなことから顕在化する。その透かし模様の美しさに、ああいうことは「ありえる」のだろうか、という考えは浮かんでこない。
ロベルトの属する業界の大ボスが「来客に忙しい」(でもって「来客」には人格が全く無い)様子に、なぜこんなに男根主義的な描写を何度も挿入するのかと思っていたら、この映画には、システムを固持するのが「男」、それに揺さぶりを掛けるのが「女」という役割分担があるのだった。作中「揺さぶりを掛ける」のは、男性カメラマンを制止した女性記者に「同じ女として」話を持ち掛けるルイサと、その約束を守った記者。やがて走り出す館長もそれに入れていいだろう。だから最初と最後に映るのが「女」の顔なんだと思う。



この度はアレックス・デ・ラ・イグレシア監督による二作を同時公開というので、もう一本の「スガラムルディの魔女」も見た。「魔女」を次々と映し出すオープニングタイトルが何とも面白く、「有名人」じゃない私だってあそこに映ってたら「魔女」らしいだろう、魔女ってその程度の、見る側による名付けでしょうと思う。本作の「魔女」はそういうんじゃない、「自主的に」いくとこまでいってるやつだけど。


冒頭「キリスト」が携帯電話を取り出す場面からして最高で、コメディとしては今年屈指。でも、そういうテーマなんだから当たり前だけど、「男」と「女」が分断している映画は見ていて楽しくない(これは私が映画には現実の嫌な面よりも「普通」の面を描いて欲しいと思っているからだろう)。(監督の)妻をああいう役にあてがうというのにも、そりゃあ確かにあの役しか無いけれども、白けてしまった。主人公が息子を預かっているところに元妻から電話が掛かってきて食事や宿題の心配をされる、みたいな、女はきちんと生活しているが男はだらしない、という描写ももううんざりだし。まあそういう観念を動力としている映画なんだけども。


「刺さった男」も「スガラムルディの魔女」も、同性ばかりが支配するシステムにおいて、その一員として生きてきた者が、ひょんなことを切っ掛けに反抗するという話だ。どちらの映画を見ても、いま世界に必要なのは、万人のためのフェミニズムだという思いに至る。尤もその「システム」というのが、前者では「世界」そのものの現れであるのに対し、後者ではその「世界」に対抗するために作られた、他と繋がりの無い、狭義の、所詮はちっぽけな空間だというのが、女である私としては、少々やりきれないけど…