チョコレートドーナツ




「質問には『はい』か『いいえ』で答えてください」


原題は「Any day now」、作中アラン・カミングが歌う、ボブ・ディランの「I shall be released」の歌詞より。
舞台は1979年のカリフォルニア、ウェストハリウッド。ショーダンサーのルディ(アラン・カミング)と弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)は仮の親権を得てダウン症の少年マルコを引き取り育てていたが、二人が「同性愛者のカップル」だと明らかになるや引き離されてしまう。


ルディとポールの始まりを描く冒頭が好きだ。まずは互いの「一目惚れ」(ルディは後に法廷で、マルコに対する思いも「一目惚れ」と表現する)。場末のクラブのスターであるルディと、楽屋に戻った彼に「ゴージャスな男」と評されるポール。二人は早速車内で「関係」を持つ。怪しんで灯りを突き付ける男の警察官にルディが「あんただって『ball』で遊んだクチでしょ」と言うと銃を抜かれるが、法律家であるポールの取り成しで事無きを得る。笑いの後に名乗りあう二人。ポールが一言「いい男だったな」、それこそ当人が憤死しそうだ。
中盤、ポールの上司宅のパーティにて、「いとこ」扱いに心乱れたルディが言うには「これからどうするのよ、『年取ったオカマ』が二人で」。ポールは大学卒業後の「完璧な人生」に見切りを付け、「10年必死にやってきた」。ステージではきらびやかなルディは家賃の支払いもぎりぎり、冷蔵庫にあるのは干からびたチーズと人参くらい。でも彼らの関係は穴の埋め合いじゃない。それぞれ誇りある、自由な魂を持つ二人の間に、すれ違いがあり、衝突があり、謝罪があり、繋がりが生まれる。


冒頭にあげたセリフは、相手側の手管により仮釈放されたマルコの母親に裁判長が「あなたは息子を育てられますか」と問う時のもの。裁判の、少なくともその裁判の場では「はい」か「いいえ」しか通用せず、当てはまらない「本当のこと(あるいは意思)」は在っても無視される。ルディは裁判で「こぼれ落ちるものを救いたい」と訴えるけど、この映画自体が「こぼれ落ちるもの」こそを意識させるような作りだと思った。
ポールはルディの誕生日にレコーダーを贈り、昔からの夢である歌手に近づくためデモテープを吹き込むよう勧める。ルディは二人が出会った時にはリップシンクでしか表現できなかった、フランス・ジョリの「Come to me」をスローテンポで歌う。聴き入るポールとマルコの表情のいいこと。そこへ彼らが記録した三人の映像が流れる。アラン・カミングが「歌っている時」と「歌っていない時」、その狭間に「何か」を感じて、引き込まれて、落ちそうになる。


窮地に追い込まれ、ポールは自身での弁護をあきらめ?弁護士を探す。黒人弁護士は「白人のところを回ってことごとく断られたんだろう?」と言い放つ。「白人」の方が「有利」だからという理由があったのかもしれないけど、実際問題、マイノリティである彼らも「差別的」な行為をしてしまうことがあると分かる。
弁護を引き受けることになった彼が言うには「全てが嗅ぎ回られ、暴かれるぞ、それこそこれまで寝た相手とか」。マルコを受け持つ教師が「私は親達がどのような性生活を送っていようが興味はありません」と言うのと正反対だ。尤も実際には、もっと「簡単」で「効果的」な手が使われるんだけども。
映画の最後、かつて「世界を変えるため」に法律家になったポールは手紙をしたためる。法に携わる人々が「本当の問題」に目を向けてくれるように。歌手を目指すルディは「私をここに追い込んだ人達の顔は皆覚えてる」「今すぐにでも私は自由になる」と歌う。それぞれが自分のやり方で世界に働きかける、そこで物語が終わるのがよかった。自分もそうして、かつ他人のそれに敏感にならなければと思う。


ギャレット・ディラハント演じるポールが何とも言えずセクシー。実際に見たらかっこよくて高嶺の花なんだろうけど、男前が年を経ての普通っぽさというか、くたびれた青年感がたまらない(ディラハントはカミングより年上だからね)。作中、アラン・カミング共々何度もウインクをするのがいい。