ペコロスの母に会いに行く



長崎を舞台に、団塊世代の語り手ゆういち・通称ペコロス(「小さな玉ねぎ」の意)と、認知症の母みつえの日常を描く。受け入れ難い部分はあるけど、面白く見た。花街で偶然会った幼馴染に知らぬ顔をされ、赤子を背負って夫を追う女の下駄の跡の深さの心に残ること。


冒頭、ペコロス岩松了)がカフェでギター片手に歌う画に「コントラクト・キラー」のジョー・ストラマーを思い出す。かっこよさは段違いだけど(笑)お茶しに来てあんな人が居たら困惑しちゃうかもと思うも、彼が母親からの電話に出て慌てる姿に皆が笑う、「ありえない」わけじゃないけど、なんだか非現実的な、不思議な感じ。ここでいいなと思った。
この場面だけじゃなく、お店というものが魅力的に撮られている。ペコロスが本田(竹中直人)を連れて行く馴染みのライブハウスでは、歌う彼とそのハゲ頭越しの客達の様子が生々しく迫ってくる。ペコロスに呼ばれた息子のまさき(大和田健介)が立ち飲み屋に入る際には、手持ち風の映像が若々しい。注文した「芋」焼酎は辛く、青年は顔をしかめる。
舞台である長崎の街もいい。終盤のまさきのセリフにあるように「高いところから何でも見える」から、母のみつえ(赤木春恵)が家の前くらいしか出歩かなくても、見ている私も、おそらく彼女も、辺りが見下ろせるため閉塞感が無い。ロングショットで撮られる、横から見たらぐねぐねした坂道も楽しく、子ども達が通学する風景は、小学生の頃に大好きだった、瓶を使用した「アリの観察」を思い出した。車が行き来する様子も可愛らしい。
ランタンフェスティバルのシーンは、「今」のみつえにとって「遠出」が久々ということもあり、変な言い方だけど、ディザスター映画のクライマックスのような、妙な高揚感があった。


「迷子」のみつえを眼鏡橋に見つけた孫(まさき)は安心してそこで足を留めるが、子(ペコロス)は駆け寄っていく。作中多くの「回想」は、母子が共有しているものもあれば、母だけのもの、母が胸におさめているものもあるけど、この場面において、子がそれを「共有」する。このシーンはずるいなあ(笑)涙がこぼれてしまった。
作中のペコロスは、みつえの幼馴染である「ちいちゃん」の「その後」を知ったのだろうか?中盤に漫画を描いている際の彼の独り言から、母は子に嘘を伝えたことが分かる。「普通」に考えたら、ペコロスは「その後」を知らないままだが、「映画」(本作)には母の視点も存在する、ということになる。しかし上記の「共有」により、最後に彼もそれを自分のものにしたと考えることもできる。これが面白いなと思った。
本作の「回想」シーンのある種の激しさは、母が子のことを…誰かが誰かのことを「忘れる」、忘れていく予兆と交差しているからかもしれない。タイトルの「会いに行く」というのは、自分から会いに行かなければならない、という意味に受け止めた。