ストラッター



25000ドルで製作された、モノクロームの「ロック映画」。


一人のミュージシャンが「ミューズ」を失い、「愛し愛される女」と一緒になるまでの物語。ラスト、二人が観覧車に乗り、手と手を取り合うと、それまで地面を這いつくばっていたカメラ…視点が初めて高くなり、開けて、世界が広がる。
私は世に言う「ミューズ」ってものが嫌いだから、この映画を面白く見た。といっても本作における「ミューズ」は本来の意味に近く、「知性と美しさ」を備えた、男達同様のミュージシャン。しかし「生身」ではない。「生身」とは主人公ブレットのママによれば「あんたのことを分かってて、愛してくれる女」。才能が無くてもいいってことだろう。
「ミューズ」は「ジャスティーン」というその名が出てくるのみで、姿を見せない。終盤男二人で「囚われごっこ」をしている際、女の子に「ジャスティーンって誰?」と聞かれたデイモンは「実在しない女」と答える。本作には「実在しない女」、どころか「対象」の女は出てこない。ワンシーンのみの登場であっても、時にはわざとらしい程の描写でもって、皆生きている。


冒頭、ブレットが女友達の家を訪ねての会話に感じた楽しい「ヤラセ」臭が、帰宅した彼がママとその恋人のフランクと三人で横一列に並んでパンケーキを食べる場面で加速する。楽器店の前の犬はこちらを向いてなきゃならないし、友人はバイクをあちらを向けて停めなきゃならない。とても「完成」を目指してる感じを受ける…受けてしまう映画だ。
最近の映画だと「わたしはロランス」に最も「ひたすら走り抜ける」感じを覚えたものだけど、3時間近くあるそちらが全力疾走で、90分足らずのこちらがスロージョギングの体なのが面白い(笑)宣伝からは「愛しのタチアナ」も連想してたんだけど、観てみたら、90年代に「オフビート」と言われてた映画の数々よりはエッジが無いというか、間口が広いというか、いいとこ取りというか、そういう感じを受けた。「今」見てるからってのもあるか。


ブレットを愛するクレオの登場時、なんてモノクロに映える顔だろうと思う。彼女は映画、それも無声映画が大好き。「カサヴェテス特集」を掲げた映画館で働く彼女を捉えた、無声映画風の章(の前半)がとてもよかった。メアリー・ピックフォードの大きな写真に顔をよせることから、そうなりたいと思ってるのが分かる。
クレオとその女友達との二人の場面はどれも楽しく観たけど、男三人の「砂漠のツアー」のくだりは少々飽きてしまった。自分と共通点(「女」ってだけだけど・笑)があるなら似たようなやつらしか出てこなくても構わないけど、そうでなければ飽きちゃうってことか、あるいは彼らを送り出すママの「私にとっても都合がいい」とのセリフが、手軽なやり方でマッチョ成分を排除しようとする、作り手の言い訳に聞こえちゃったからか。


大人の男が二人。ママの恋人のフランクはブレットに「ミューズは必要だ、ミュージシャンなら分かるだろ」と話を振られても(少なくともママの前じゃ)ふふんと笑って返す程度には大人。冒頭、昼になっても起きない彼に対し「働くのは私だけ?」とふてくされるママの後ろから、ブレットに向かって「パンケーキ食べるか?」と言うと、多分いつものことなんだろう、まずママがにっこりするのがいい。
一方楽器店の店長は「自分みたいになるな」「(女に振られたなら)また池に飛び込んで魚を探さなきゃ」としきりに主人公の背を押す。本作はラストシーンに表れてるように「誰かと一緒」至上主義だから、このしつこさを異様に感じちゃいけないんだろう(笑)ともあれ二人とも、主人公に影響を与えながらもまだ「中途」にあるのだった。


エンドクレジットで、ブレットの働く楽器店にやってきた「本物」=J.マスシスがギターを手にして弾き始めると、一気に心を掴まれ、ロックミュージシャンの「物語」なんて無くていい、むしろ要らないとさえ思ってしまう。でも振り返ると、私は別に「ロックミュージシャンの物語」として見てたわけじゃないから、差し支えない。
楽器店の店長役のテリー・グレアムだって「本物」だけど、作中彼が演奏する場面ではこんな気持ちにならない。彼がどうとかいうんじゃなく、それは「映画」の中だから(「エンドクレジット」は「映画」として撮られていないから)。撮り方以外にも、当人の側の「違い」もあるんだろうか?J.マスシスは「ただ」演奏してるだけだけど、テリー・グレアムは、例えば「このような心持ちで」など、「演技」しながら「演奏」したんだろうか?などと思ったけど、考えたら「俳優」として出てる以上、ミュージシャンであろうとなかろうと「演技」するのは当たり前か。