少年は残酷な弓を射る



オープニング、こちらに気付かれないくらい静かにタイトル(原題「We Need to Talk About Kevin」)が出る際、最後に「KEVIN」が残る。Weとは誰かと思った。
冒頭はティルダ・スウィントン演じるエヴァの夢(回想)。スペインのトマト祭りに興じる群集の中に彼女がおり、周囲の人々に担がれ、運ばれていく。映画は目覚めたエヴァが、自宅になすりつけられた「赤」をこそげ落として息子に会いに行くまでの「現在」と、彼女の回想とを織り交ぜながら進行する。


古風に言えば息子のケヴィンを「宿した」時が描かれているのが印象的。「今日は『安心』?」「分からないけど…」「試してみようか」。やがて彼女は鏡に自分を映し、すっかり形の変わった腰をさする。妊婦仲間やチュチュ姿の幼女の群れ。そして「現在」の彼女は、(後に分かる「理由」により)周囲からあからさまに悪意を向けられ、具体的な暴力を受けている。こうしたことが「ショッキング」な演出で描かれていることから、「妊娠」そのもの、また「嫌悪を煽るもの」を産んでしまったらどうしよう、という恐怖を煽るホラー映画だなと思った。
それにしても恐怖と笑いは紙一重、観ながら何度か笑いそうになってしまった。「怖い」場面で繰り返される、ケヴィンが「嫌」と言う曲なんて笑わそうとしてるとしか思えない。後ろの席のおじさんが所々で盛大に笑ってたので、そうだよね、可笑しいよね、と思う(笑)


ティルダ様が演じているから一見気付かないけど、エヴァは例えばお正月や誕生日に「今年の抱負をどうぞ!」なんて言ってくる類の「親」だ。娘の消えたハムスターを懸命に探すも、旦那に「もうよそう」と言われ、おそらくその後セックスして、翌朝娘には「一晩中探したのよ」。息子との「デート」がかなえば安心しきって、他の客を横目に「デブはいつも食べてる」。その言動はすごく「普通」というか、誰もがしそうなことばかりだ。
彼女の一つ一つの「回想」から、妊娠・出産に対する怖れと同時に、何かしら「普遍的」な、自分もそこに滑り落ちてしまうかもしれない、という空恐ろしさも感じた。でもってその主人公をティルダが演じていることで、「普通」じゃない特別感が生まれ、映画としては二倍楽しめる。


幼いケビンは何でも「知っている」。数やセックスについて、どこでどうして知ったのか。私はそれは「怪物」だからだと思った。しかし最後の面会の場面で、母の「なぜ?」の問いに彼は「今までは分かってるつもりだったけど、分からなくなった」と答える。私は「憑き物」が落ちて「怪物」じゃなくなったと思った。ラストシーンの二人は、変な言い方だけど、初めて「人間同士」として向き合っているように感じられた。


ケヴィンを演じるエズラ・ミラーが映る全ての瞬間が至福の時。あれだけ美少年「然」としていると、演技がどうとか判断できなくなる。それは私にとって、性的な欲求とは少し違う、そう丁度ティルダ様を見る時のような、美に酔う快感。この二人が親子ってだけで見てよかった。
二人は同じ、苺ジャムを挟んだ白パンを食べる。全篇に渡って、食べ物の描写があざといくらいに禍々しい。予告編から山岸凉子の「蛭子」を連想してたので、「甘いもの」が出てきた時には来た!と思った(笑)