マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙




「ようこそ、狂乱の世界へ!」


国史上初、唯一の女性首相マーガレット・サッチャーメリル・ストリープが演じる伝記映画。


オープニング、きっちり化粧をした老婦人が、小売店でミルクを選びレジに持っていく。回想ものなのか〜と思っていたら、全篇がまるで「夢」のような、奇妙な感じの映画だった。


スクリーンに溢れるおじさんの群れ、それらは時勢により表情こそ変わるが、私からしたら逃げ出したくなることに変わりはない。しかしマーガレットはそれほど居心地悪く感じていないようだ。黒っぽい群れの中に一人「おばさん」の、生々しい化粧の匂い。作中のメリルは「化粧してる!」という感じの顔だけど、それに意味がある。マーガレットが「整理」する色々なものの中には化粧品もある。彼女は古い香水の匂いを嗅いで処分する。
「現在」において、自宅での夕食会の部屋に入る際、マーガレットが片足でもう片足の後ろをとんとんすると、場面は彼女の過去へ飛ぶ。マーガレットの、「現在」に至ってもいついかなるときもきちんと揃えられた脚(唯一、退陣を間近にして一人佇む時だけ脚を組んでいる)、また夕食会の後に娘にパンプスを脱がせてもらい、リラックスする様子が印象的だった。
為政の描写はあまり無いけれど、冒頭のセリフのように、「現在」のマーガレットにしてみれば、過去のあれこれは狂乱のように感じられるのかもしれない。


予告編では「鉄の女も一人の女、一人の妻であった」ということを強調してるけど、そういう感じの映画ではない。言うなれば「一人の人間だった、そして今は老いている」。
いわゆる「仕事のために家庭をないがしろにしてきた」描写としては、「双子」がマーガレットの車に追いすがる場面、次には成長した娘の運転に朝から付き合い、帰ってくるなり「党首選に立候補するわ!」と宣言して「そんなこと考えてたの!」と非難される場面があるくらい。ちなみにこの後、夫のデニスが台所で卵を割ろうとするのを止めて「自分でできるぞ!」「まあこわい」というのはひどい(笑)全体的に、マーガレットの夫に対する態度はあまり良く描かれていないように思う。
「双子」と言うからには子どもは二人いるんだけど、娘は冒頭から少々ユーモラスな感じで登場するのに対し、息子の方は幼少時の思い出のみで姿を見せない。真夜中の(時差がある異国からの)電話で「ドタキャン」した上に一方的に通話を切るだけ。もしかしたら何らかの事情があるのかもと思わせられた。家族に非難される場面が少ないからといって、この映画はマーガレットの「回想」なのだから、それが「事実」とは言えないわけだ。


おそらく認知症であろう「現在」のマーガレットは、デニスの幻想と共にある。(鍵を掛けられ)部屋からは出られないものの食事を摂り本を読み、パートナーと会話をし、私からしたらそれなりに幸せそうだ。しかし医者に「幻覚を見ますか?」と聞かれるとはっきり否定し、現在の社会について、自身の父親の言葉を引いて「感じるより考えることが大切」と突如長々と意見を述べてみせる。帰宅すると、「声」さえ聴こえなければデニスは消える、私は正常なのだと、家中の電化製品を点けて「声」を消そうとする。老いてなお「首相」であること、いや自分の目指した何かであることを選ぶのだ。


デニスの若い頃を演じたハリー・ロイドという役者さんはディケンズの曾曾曾孫だそう。とても感じがよかった。選挙に敗れたマーガレットにフィッシュ&チップスを買ってくる場面がお気に入り。