マシンガン・プリーチャー




「お前は軍人なのか?」
「いや、銃が好きなだけだ」


実在する「Machine Gun Preacher」、アフリカの内戦地域で子どもたちの救出活動を行うサム・チルダースの半生を映画化。彼については「君たちの身内が誘拐された時、救出する手段を問うかい?」という(「本人」による)最後の言葉に集約されている。そりゃあそういう人も出てくるかなと思う。観ながら、全然違う話なんだけど「モスキート・コースト」を思い出してた…というか、こういう筋ならああいう映画になってくれればいいなと思いながら観ていた。


オープニングはスーダンの凄惨な「儀式」。場面が替わり、一人のアメリカ男が刑務所を出る。背中でジェラルド・バトラーと分かる。車を停めて外で待つ妻役のミシェル・モナハンも、背中での登場。こちらは分からなかった(笑)
麻薬を扱い妻に暴力を振るうサム(ジェラルド)は、ゆきずりの男を刺してしまったことでショックを受け「神」に目覚める。久々にバーに行くと、ワル仲間ドニー(マイケル・シャノン)に「あいつは死んでなかったぞ」と教えられる。サムいわく「神に助けられた」、この一言が面白い。


サムの人となりが分かるのは、危険地域を初めて訪れた夜のこと。「写真は撮ったか?帰って土産話にするんだろ」と言われ返す言葉もないが、襲撃を恐れる親の手で家から出された子どもたちが外で寝ていると知るや部屋を飛び出し、皆を起こして建物に入れる。案内役のデン(人民解放軍の兵士)だって胸を痛めつつ、全員は無理だからと諦めていたのだろう。しかしサムはじっとしていられない。
後半似たようなことが起こる。しかし今度は車に「25人しか乗れなかった」ため、一旦残していった子ども達は殺されてしまう。皆を救いたくても出来ない時がある。ではどうするか?またしても同様の状況下になるラストシーン、彼は「自分も一緒に残る」。出来ることをするってだけだ。
これは家族の件にも通じる。とりあえず電話を掛けて「愛してる」と言う。現実にはどうだか分からないけど、少なくとも作中では、それでいいのだ。


その他、印象に残ったのは「遊び」。冒頭からサムは、娘が寝る前やちょっとした時の触れ合いに「韻踏みごっこ」をしている。妻が託児所を開いた時も、遊具の有無を気にする(妻は「子どもなんて公園でもどこででも遊ぶわよ」と答える)。もっともサムが「目に見える」遊びにこだわるのは、それがないと子どもとコミュニケーションの取れない、不器用なタイプだからだとも受け取れた。孤児院にて、走り回る子どもに仕事の邪魔をされて追い払うも全く効果が無かったり、皆に野球を教えようとするもサッカーが始まってしまったり、という場面にそれが表れている。


上記の「子どもにはヨワい」サムのほのぼの描写は、作中数粒の塩程度のいいアクセントになっている。しかしエンドクレジットに流れる「マシンガン牧師」本人の写真や映像を見たら、むべなるかな、いや、もっと彼の魅力を出せなかったものかと思ってしまった。最後の方に出てくる、片手でがんがん銃を撃つ映像など笑える。演説の様子も幾つかあるので、本編と比べるのも面白い。ジェラルド・バトラーは好演ながらちょっと重い気がする。


前半、サムが初めて教会に行くくだりで、女の子が歌う賛美歌がやたら長く挿入されるので、どういう意味かと考えた。私は子どもの声が苦手なので苦痛だった。