ヨコヅナ マドンナ


シャンテシネにて観賞。
始めに関係ない話。「僕らのミライへ逆回転」の予告編で、ビデオ屋のカウンターの後ろに貼ってあるポスターが大好きな「タイムトラベラー きのうから来た恋人」のものだと初めて気付いた。下半身だけしか映ってないから見過ごしてた。ミシェル・ゴンドリーは「エターナル・サンシャイン」「恋愛睡眠のすすめ」など劇場でも家でも寝てしまったことからして、あまり自分の好みじゃないみたいだけど(唯一ちゃんと観たのが「ヒューマン・ネイチュア」・笑)、これはやっぱり楽しみ。



「ヨコヅナ マドンナ」…邦題は真中に赤いハート。
韓国の港町に暮らす男子高校生オ・ドング(リュ・ドックァン)が、憧れのマドンナのような「女」になるため、シムル(相撲)大会の優勝賞金獲得に向けて頑張る話。なんてことないんだけど、とても良かった。


男性の身体を持ちながら「女」になりたく思う主人公、加えて「ライク・ア・ヴァージン」のようなテーマ曲とくれば、「プルートで朝食を」のようにそれっぽい既成曲が色々流れるのかなとも思ったけど(「プルート」の場合ニール・ジョーダンだからってのもあるけど)、目立つ曲はこれだけで、あとの音楽は効果を上げる程度のもの。そのシンプルさが、ベタなギャグと相まって楽しい。最後に再度、「ライク〜」でのダンスシーンは楽しかった。


冒頭、部屋に寝転がって「ライク・ア・ヴァージン」を聴く幼少時のドング。「ベルベット・ゴールドマイン」のクリスチャンを思い出したけど、あれほどじめじめしてはいない。
中盤、部屋で口紅を付けているところを見つかるシーンがあるんだけど、固まってしまう父親に対し、ドングはそれを見返すのみ。好きなもののために頑張る、でも大変さも感じている、そういう普通っぽさが、彼の何気ない目つきや表情に表れており良かった。
現代の高校生が「ライク・ア・ヴァージン」を聴くというのは、74年うまれの私が高校生の頃に60年代前半の曲を聴いているようなものだから、始めはピンとこなかった。でもこの映画は、こういう子、こういう人間がいるよ、という話だ。ドングは白シャツのまぶしい日本語教師草なぎ剛)を愛し、シムル部のコーチ(アウトローな北王子欣也風)に身体検査をされると「気持ち悪い」と感じ、男前の先輩(イ・オン)とのハダカでの取組には躊躇がない。一体こういう子はそういうふうに感じるものなんだろうか?彼はそういうふうに感じる、ということだ。


ドングの恋心への草なぎ剛の対応は、おそらく「普通」の日本人的感覚からすると異常なものだ。しかし彼がお仕置き棒?を常備していることや、ドングの父親が彼を足蹴にするシーンなどから、韓国の日本との違いが分かる。
また父親が定食屋で客のベトナム人に対し「韓国に来たら韓国語で喋れ!」「お前らのせいで仕事がなくなる」などと絡むシーン(その後、流暢な韓国語を返される)は、韓国映画を観慣れない私には新鮮で面白かった。先月観たケン・ローチの「この自由な世界で」じゃないけど、人もお金も実際、国境を越えてるんだなあと。


ドングは部屋の片隅に置かれた机の周りを好きなもので固め、可愛らしく飾りつけている。ショックを受けたある日、帰宅すると、引き出しをまさぐり安っぽい口紅を次から次へと取り出し、唇につける。
私にとって「女」であるために何かをするということは、自分が性欲を感じる相手とギブ&テイクするため、と言える(他の人は違うのかもしれないけど、自分にとっては、つまるところ)。「自分の認識する性」「性欲を感じる性」「そんなふうに決められない、グラデーションのようなもの」個人の性的要素の組み合わせは色々あるけど、彼のような人が化粧をするのには、私には分からない意味があるんだろう。また逆に、男性器を取り去りたい人が皆、過度な「女」になりたいかというと、たぶんそうじゃないんだろう。そんなことを思った。


韓国の相撲は、ハーフパンツの上からサッパ(まわし)を付けて行う。どうやって結んでいるのか、日本の相撲を見慣れた目からするとずり落ちそうでどきどきする。土俵がまるで砂浜のようにざくざくなのにも驚いた。
市大会でのイ・オンのライバルとの一戦は迫力がある上にエロい。形式美が強くて「普通」の人とはかけ離れた世界になってる日本の相撲と違い、学生の大会だからってのもあるけど、身近なかんじがして面白かった。


最後に一つ。シルム大会の最中、試合の幕開けに踊っていた女の子たちが、体育館の隅で輪になって休んでいる様子がちらっと映る。うまく言えないけど、こういう当たり前の「つながり」がある映画って好きなんだよなあ。