サンキュー・スモーキング / ブラック・ダリア


週末の歌舞伎町にて「ブラック・ダリア」。場所柄か、デパルマファンの?中高年男性がわんさとつめかけてて、正直匂いに閉口してしまい、持ってたチョコを食べて気をまぎらわせてました。


先週「サンキュー・スモーキング」を観たばかりなので、アーロン・エッカートづいている。「サンキュー〜」では「タバコ研究アカデミー」のやり手PRマンながら一本も吸わないのが、「ブラック・ダリア」ではまあまあふかしてたので嬉しかった。
「サンキュー〜」は面白かったな〜。とにかく彼扮する主人公の言うことがいちいち真っ当で、気持ちよかった。彼の息子がパパとのロス行きをママに反対されたときの反論とかね、私もいつも、ああいうふうに考えてる。私生活での「一般には…」なんて話、その枕詞にすら気付かないまま口にされる話には何の意味もない。
あと「あなたもおっぱい好きなの?」と言われた彼が「誰のものかによるさ」と返すのは、私もこの手のこと聞かれたらたぶんこう返すと思うけど(状況によるが聞く方も聞く方だけど)、こういうブナンな返答をさらっとするのって大事なことだ。
それから、日本びいきのハリウッド大物プロデューサーのロブ・ロウって、一瞬ジョン・バダム?かと思った(好きな監督。最近はじめて、ジェイソン・パトリックが贋作画家を演じる「迷宮のレンブラント」('97)観たけど結構面白かった)



閑話休題
1947年、ロサンゼルス。元ボクサーの二人の刑事、リーとバッキー。リーの婚約者ケイ。切断死体となったのは、スターを夢見た「ブラック・ダリア」。ダリアに似た富豪の娘。
原作となったエルロイの「ブラック・ダリア」は未読。先月買ったスティーヴ・ホデルの「ブラック・ダリアの真実」は、上巻数十ページのとこでずっと止まってる。同行者が読んでたから、色々聞いてしまった。
前半のボクシングシーンから、濡れた音楽、せまるカメラ、メロドラマぽくて、いかにもデパルマだな〜と思って、楽しかった。
恋におちると、彼が睫毛を伏せただけで、思慮にふけっていると感じられるように、もしくは、何も考えてないと判るからこそ美しく見えるように、映画には魔法がある。実際の人生では、誰かと誰かの何かが重なっても、よくあることで、それ以上の意味はないけれど、映画では、何かがある。でも「ブラック・ダリア」では、幾度か魔法がとけて、何もない瞬間、があった。ヒラリー・スワンクが何か言うとことか。何て言ってたかも、忘れた。
魔法の存在には、とけたときに気付くものだけど、デパルマの映画はそういうことを気付かせてくれる。魔法なしの本当の人生はそういうもんだって。それもまた面白いかも、と思うほど、まだデパルマのことが好きではある(笑)
ちなみに私が彼の映画で印象的かつ好きな場面のひとつは、「殺しのドレス」で、娼婦のナンシー・アレンと、眼鏡かけたおたく少年が、コーヒーショップで事件について話し合うシーン。デパルマの、とくに昔の作品には、こうしたちょっとしたリラックスタイムのようなとこがあって、好きだった。


後半はややこしくなってきて、疲れてしまった。同行者とは「外国人の名前は頭で瞬時に処理できないため、登場人物が多いとわけがわからなくなる」ということで意見が一致。


ヒッチコック風ヒロインに扮したスカーレット・ヨハンソンは、私にはいつも、つるつるした単なる子どもにしか見えず、何の印象も残らない。今回もそうだったんだけど、その演出から、いわゆる「女らしさ」って、顔や身体がどうとかじゃなく、表情やしぐさ、身なりなんかでじゅうぶん表現し得るもの、むしろそういうとこにこそ現れるものなんだなあとしみじみ思った。まあ実生活では疲れちゃうから、利便もあって脚でも出すわけだけど。
ヒラリー・スワンクのほうは、背中の開いたドレスをよく着るんだけど、「ミリオンダラー・ベイビー」での筋肉は程よく落ちていた。女性ばかりが集うクラブでの登場シーンに「彼女が一番美しかった…」というジョシュ・ハートネットのナレーションが入るんだけど、その場面にいる女性の中で、私が誰かとベッドに入れって言われたら選ぶのは彼女だろうから(あれが男ならかぶりつきたい顔だ)、美しいんだろう。


事件が起こる1947年は母が生まれた年。作中、ロスの大通りの時計が夜中の12時を指してるシーンがあるんだけど、皆、ふつうに行きかってるの。この時代からこんなだったのかと羨ましく思った。東京メトロ営団も、夜中運行してほしいものだ。