岩館真理子「おいしい関係」


住所登録義務も撤回されたことだし、今後もはてなにお世話になろうかな、と思ってるのですが、今のうちに、私にとって永遠に特別な漫画、岩館真理子の「おいしい関係」とその続編「週末のメニュー」について書いておきます。「ひとりマンガ夜話」ってことで(笑)
(本腰入れて書くとかなり長くなりそうなので、後々ファンサイトにちゃんとしたものをアップする予定、として、今回は簡潔にまとめられるよう、がんばってみる…)



おいしい関係」「週末のメニュー」は1984年の週刊マーガレットに連載、単行本はマーガレットコミックスとして全2巻+1巻で発売されています。かなり古いものを除き、週マ時代の作品はほとんどが90年代後半に自選集として文庫化されていますが、これらに関しては、本人に意思がないようで、いまだそのめどはありません。角川文庫「わたしたちができるまで」の自作解説でハッキリ「駄作」と言い切ってるので、これからも見込みはないでしょう(ただし、読もうと思えば、大型古書店で比較的容易にみつけられます)。
私が岩館真理子を知ったのは、この連載初回の週マをたまたま立ち読みしたのがキッカケ。主人公のたまこちゃんのトリコになり、岩館作品を追いかけるようになりました。


たまこは北海道に暮らす高校3年生。手先は器用で裁縫が得意だが、運動神経は皆無に等しい。
彼女は妻子と別居中の体育教師・安藤とつきあっているが、ある日、彼が他の女生徒・今日子とも関係があることが発覚。たまこは彼女を問いただすが、逆に自分のいい加減な態度を指摘されてしまい、引き下がるしかなかった。
スキーの指導で知り合った音吉兄弟とは何かと縁があるが、彼等もまた、今日子と近しい関係にあった。


「imago」96年7号に、東玲子さんの「自閉する快楽―岩館真理子論」という評論が掲載されています。近年、ファンサイトを見られたご本人からメールをいただき、チェックしそびれていたこの文章を幸運にも読むことができたのですが、その中で、東さんはこの作品を「(岩館作品の中で)もっとも少女らしい情感にあふれた(中略)少女の好みの低次元でナルシスティックな精神状態の気持ちよさをトーンにしながら、同時にそこから出ていこうとするまでの少女の姿を描いたもの」とされています。これは私もまったく同じ意見です。岩館作品の多くは、自己の内部と外部との軋轢をテーマとしていますが、これもそのひとつ。
「ネームの通し読みは(恥ずかしいから)絶対しない」(91年当時)とのことで、この連載などとりわけぐちゃぐちゃな印象を受けますが、何度か読んでると、意外と(笑)きちんと話が組み立てられてることがわかります。


冒頭、スキーの授業を受けるたまこちゃん。



降りなければ 帰れないのだ あたしは 帰りたい 家が恋しい こたつの中で眠りたい
だけども この絶壁を降りなければ それは夢なのだ


作者本人も後に「女の子が成長していく過程を描きたかった」と語っていますが、これは、自分の世界に閉じこもってぬくぬくしていた少女が、殻をやぶって外に出てゆくまでを描いた物語なのです。
そして、次のコマ



つまらない夢を見させているのは この男だった


「この男」とは、安藤先生の代理でやってきた「音吉コーチ」。たまこちゃんに自立するキッカケをはからずも与え、最初のパートナーとなる男性。


第一話で最も印象的だったのが、吹雪から避難したロッジでコーチをみつめるたまこちゃんの表情(MC25p)。帽子は脱いでも頑なにゴーグルを外さないコーチを、たまこちゃんがじっとみつめると、(たまこちゃんには見えなくとも読者には)ゴーグル越しにコーチの目が透けて見えるのです(作中このような描写が見られるのは第一話だけ)。この場面までの堅物な印象を溶かす、暖かい瞳。
この(眼鏡等を通して)「目が見える」か否かというの、私が少女漫画を読むときにいつも気になるところで*1、たとえば岩館作品でいうと、「キララのキ」の十秋の父親は、メガネだけでその奥の目が描かれることはない。「月と雲の間」の主人公のおばさんは、途中から目がちゃんと描写されるようになる。等々。


安藤先生は、授業の際、スキーが苦手なたまこちゃんをロッジで休憩させているばかりか、あまつさえ(描写はないが)一緒にお茶を飲んでいる。
彼は、本来少女漫画において主人公の相手になるタイプではない(現実生活でいうと、たとえば朝、もうちょっと一緒にいたいからといって、学校や仕事を休んじゃおうか、と言うような男はやはりダメなヤツだ。でも私はそういう男にこそ惚れてしまう。余談でした)。コーチの兄が彼のことを「ぼくはきらいだなあ ああいうタイプ」「いちばんタチが悪い」と評すと、たまこちゃんは「タチなんて悪くたっていいの」「魅力的なら」と言い返す。連載時はこんな男と不倫をしている主人公に対し、編集部に非難の声が多く寄せられたとのこと。
しかしそもそも岩館作品における男とは、主人公が「あの人が好き」と言うなら、そうか、好きなのか、と受け止める程度のもので、読者はあくまでも女性の心を通してしか認識しないから、道義も何も問題にならない。キララの父親がいい例で、この話は身もフタもない言い方をすれば「ある男が色んな女に手を出したおかげで起こる悲劇」なんだけど、物語において当の男の影は限りなく薄い。眼鏡の奥の目が描かれないように、彼の人格などどうでもいいのだ。


苦手な体育の授業を一切受けず、自分の都合のいいようにふるまってくれる男に惚れ、それなのに「スキーうまくなりたい」などとのたまうたまこちゃんは、たしかに浅墓で、ばかだ。
しかし、「あたしと同じ次元でおしゃべりしてくれる」居心地よい関係(=おいしい関係)に甘え、例え今日子のように真剣に将来を考えなくとも、たまこちゃんは「先生からは 誰よりも愛されてると思ってた」のである。だから、自分がないがしろにされたことにショックを受ける。世界は自分に都合よく廻らないことをつきつけられ、憑かれたように、初めて自分からゲレンデに出向き、スキーを練習する。
一方コーチは、たまこちゃんにスキーをきちんと教え、そのうち、彼女の甘えを冷酷に指摘する(2巻80p)。一瞬の後、たまこちゃんは笑顔で、コーチの好物であるミルキーを差し出す。受け取らないコーチ。



甘いものが苦手なのに 安藤先生は受け取るの コーチは 好きなのにいらないっていう


(さて、どっちの男性を好きになる?私なら、昔も今も、たぶん前者だろう…)


コーチや今日子さんは、たまこちゃんの言動を「ほんの少しの感情だけでくっついたりはなれたり」「いつも自分だけを守りたい」「真剣に人を好きになったことがない」と評する。たしかにそうだけど、でも、たとえば安藤先生が彼女とつきあう理由と、彼女が先生とつきあう理由とは、違うのだ。



ちがうわ 逆よ あたしはとても 先のことを気にするの とても気にするのよ
だから先生にあこがれたの 今のことだけ楽しんでいられたんだもの


内にこもって自分ばかりを愛していても、彼女は彼女なりに考え、精一杯やっているのだ。それなのに、肝心な相手には不真面目と評されてしまう辛さ。他人にまっすぐぶつかっていける人には結局負けるのか、という羨望とあきらめ。胸が痛くなるほどよくわかる。


少女漫画は当初、大人(の男性)から少女に向けたものだったが、70年代に入ってからは、少女の心を持った作家によって描かれるものとなった。そういう意味では、岩館真理子こそが「少女漫画」家の最高峰であると、私は信じて疑わない。少女漫画の特徴のひとつとは、東さんも書いているが「無意識と意識のバランス」にある。自身が少女だからこそできる意図しない感覚的表現が少女漫画家の最大の武器なのである。80年代の岩館真理子の作品には間違いなくそれがあった。絵そのものが少女の心を表現していた。90年代に入るとそれは失われたが、意図的に、例えばリアル世界と想像の世界を混ぜ込んだ画面構成や、巧みなストーリー展開でもって少女の世界が描かれるようになった。キャリアと年齢を重ねても、少女であるためにあがき続けたのである(東さんの文章では、90年代に入ってからの岩館作品が、いかに「少女でなくなった自分」を断罪するものであるか、丁寧に論じられており、非常に感銘を受けました)。
岩館真理子はよく「二人の少女」を描くが、それにはおおまかにいって二つのパターンがある。本人自身がかろうじて少女であった頃に描かれた「おいしい関係」「まるでシャボン」のように、自分の外に出て行けない主人公が、マジメに外部と渡り合っているもう一人を羨むというものと、(東さんも指摘されているように)その後の「天使の耳朶」「アリスにお願い」のように、主役の分身が少女性を背負って消滅し、主役の成長に貢献するもの、である。
そして、岩館真理子が自選集に入れないのは、前者の作品なのである。私がとくに愛しているのは前者のような作品なので、余計な勘繰りだけど、気になってしまう…
(ただし「わたしたちができるまで」によると、岩館真理子自身が「おいしい関係」を気に入らないのは「描きたいことに辿りつけなかった」から、らしい。少女誌の縛りもあったのかもしれない)


私にとって岩館真理子は、痛々しいまでの努力家である。しかし今現在の彼女は、あるステージから完全に「降りてしまった」感を受ける。その作品には、登場人物には、もはや何も託されてない。大袈裟な言い方をすれば、魂が抜けているかのように感じられる。かつて私と同じように岩館作品を愛していたファンなら、描かれた目を見ただけでわかるだろう。
それでも自分は、彼女のファンであることをやめられない。あれだけの作品を描いたのだし、今だって努力している、その行く先に興味もあるし、上品で愛くるしいといった作品の性格は変わらないものだ。それに、いまでもふとした部分に、少女の揺らぎを見ることがある。


最後に余談。岩館真理子は「音楽には弱い」そうで、作中音楽ネタが出てくることはほとんどないのですが(「6月・雨の降る街から」('80)で「私はピアノ」、「ふくれっつらのプリンセス」('81)で「恋するカレン」が使われるくらい)、「おいしい関係」を連載していた84年当時は安全地帯とBOOWYが好きだったらしく、作中たまこちゃんは先生と「安全運転」のコンサートに行くし、コーチの名前は「浩二」だし、背景のポスターや建物の名前としても何度か登場します(意外なことにルースターズなんかも)。こういうのは彼女の作品には珍しいことで、ファンとしては楽しいもの。


やっぱりそれなりに長くなってしまった…もっと書きたいことあるんだけど、このくらいで。

*1:漫画全般において、初めての目を描かない主要キャラは「マカロニほうれん荘」のトシちゃんである…とどこかで読んだ記憶があるんだけど、それ以前にもいそうなものだから、私の勘違いかな。ちなみにナンシー関は、タモリについて「目を見せずに初めてお茶の間に受け入れられた」とコメントしている。