フランソワ・トリュフォー


アキ・カウリスマキ作品において、独り者の男たちは、窓の外を眺めながら食事をとる。
戸外にたいした景色が広がってるわけではない。「コントラクト・キラー」('90/ASIN:B000065VTW)のジャン・ピエール・レオに至っては、窓の外は隣の家の壁である。それでも彼は、皿をつつきながら、ふと外を眺めてみる。
「映画に出演するときは彼の演技を真似ていたから、見本演技をしてみせるときは可笑しなことになったよ」。「コントラクト・キラー」は、カウリスマキが、彼の永遠のアイドル・レオのために書き下ろした一作(ただし、作品自体はマイケル・パウエルに捧げられている)。アキ映画の例によって仏頂面オンリー、トリュフォーが撮った表情豊かなレオとは違うけど、やはり愛がこもってます。


テレビのチャンネル替えてたら、「大人は判ってくれない」ASIN:B00005FPTD)やってたので。
子供たちの様子を見ていると、人間にとって「面白い」って、いわゆる「笑える」ことだけじゃない、マジメにいろんなことやるってことなんだなあと思う。
少年二人が向かい合って神妙に話してる、カメラがひくと、片方の子がしきりに撫で回してるのが、石像の女の尻だとか(笑)そういうシーンばかり覚えてます。
たとえば「ぼくセザール 10歳 1m39cm」(鑑賞時の感想)なんかはカメラが主人公の目線に据えて撮られてる、それは面白いんだけど、トリュフォーの映像は、すごく「映画的」なんだよね。何気ないシーンに映画の底力を感じる。


昔の映画観ると、だから映画からしかわかんないわけだけど、大人と子供の世界って、全く違う。今の世の中で、大人が大人であるがゆえに子供から憧れられたり、憎まれたりすることって、あるだろうか?



関係ないけど、映画において、登場人物が「階段を下りてくる」シーンは多々あるけど、「階段を昇ってくる」シーンってあまりない。
トリュフォーの「日曜日が待ち遠しい!」(ASIN:B00005AGBH)では、階段じゃないけど、主人公(ファニー・アルダン)が勤める事務所が半地下にあって、窓から道行く人の脚が見える。「コントラクト・キラー」の眺めに比べたら、脚好きな男性にとっては天国だ(笑)
たしか最後も、彼女が愛するボスに脚見せ付けて終わるんだよね(違ったかなあ?ちょっと自信なし…)。