子供のころ、ウィンカーというのは、クルマが道を教えてくれてるんだと思っていた。今なら「カーナビ」という解釈になるんだろうけど、ココに連れてって、とクルマに頼んで、曲がる箇所教えてもらってるんだと。
なぜそんなこと思い出したかというと、はてなで日記書くとき、せっかくだからどの項目もカテゴリ付けしたいんだけど、複数設定もできるというのに、すでにもう億劫というか、困難になってきている…文章読んで、はてなが(笑)勝手に分類してくれたらいいのに。
なんでも、誰かがやってくれるものは、やってもらえばいいと私は思ってます。私だって、誰かの自転車のカゴから荷物が落ちたらすぐさま拾うし、そういうの、全然面倒だと思わないし、やって、やられて、そういうのがいいんだけどなあ。


たぶん私が男でも(←という仮定を持ち出した時点で何もかも無意味になってしまうんだけど(笑))こういう考えだろうし、仕事とか、あんまりしたくないだろうし、だけど女がそういうふうだと、たとえば荷物運んでもらったりしてると、フェミニズムめいた話になりがちじゃん?自分でやれよと。そういう意見に出会うと、困惑してしまう。
でも、そういうときにふと思い出すことがあって、ナンシー関大月隆寛との対談中に「島崎和歌子裕木奈江が好き」と告白した彼に対して、それは社会的にまずい、とかなんとか突っ込んでたくだり。社会に生かされてもらってる以上、対外的に責任を負わなければならない。なにもかもから自由なつもりでなにかを選択しても、外からは意味づけされてしまう。だから、昔は、女だけどバリバリやってます、なんてアピールするのは、却って女を縛ることになるんじゃない?と思ってたけど、もし、そうすることでどこかに影響を及ぼすなら、それは良いことなのかもしれない、と思うようになりました。実践するのはなかなか難しいけど。