鈴本演芸場初席第三部



ストレート松浦(ジャグリング)
柳家小八「たけのこ」
柳亭燕路「狸札」
おしどり(音曲漫才)
宝井琴調木村重成の堪忍袋」
ホンキートンク(漫才)
柳家小りん「親子酒」
春風亭一朝「牛ほめ」
桃月庵白酒「ざる屋」
柳家小菊(粋曲)
柳家権太楼(漫談)
 (中入)
太神楽社中(寿獅子)
柳家さん喬天狗裁き
江戸家小猫(ものまね)
古今亭菊之丞「長短」
林家正楽紙切り
柳家三三「転宅」
 (1/6・鈴本演芸場

ホイットニー オールウェイズ・ラヴ・ユー



運命を分けたザイル」「消されたヘッドライン」「第九軍団のワシ」などどのような作品でも面白いケヴィン・マクドナルドが脚本も手掛けたドキュメンタリー。辛くなりそうで迷ったけれど、見てよかった。


再選したレーガンの「アメリカは絶好調だ」との言葉を中心とした80年代半ばの「アメリカ」の洪水から、幼少時のホイットニーが体験した1967年のニューアーク暴動に立ち返るオープニング。物心ついた時のアメリカ(=世界)の顔がレーガンだった私だけど、変なことを言うようだけど、当時から今に至るまでホイットニーの貌や声がはっきり認識できない。このドキュメンタリーを見てその理由が分かったような気がした。私が知らなかった、さして知る努力もしなかった世界に彼女が生きていたからなのだと。


色が白いから苛められた、中産階級を目指す両親が20ブロック先のエリアに引っ越したなどのエピソードにふとトレバー・ノアの著書を思い出していたら、後に映画「ボディガード」が南アで上映された際には白人男性と黒人女性のキスシーンに大喝采が起きた、アパルトヘイト撤廃後に初めて当地でコンサートを行ったのはホイットニーだとそのステージの様子や客席で抱き合うカップルの映像が流れた。ここで「人々」に向けて歌う彼女は「スター誕生」のラストシーンのジュディ・ガーランドのようだ。同時に母娘で「変わっちゃいけない」「変わらない」と言い合う姿はノーマンのようでもあり、同じ人間の中に幾つもの要素があるという当たり前のことを思った。


ケビン・コスナーは素晴らしい役者だし、このドキュメンタリーの中で私の耳が最もはっきり捉えたのはホイットニーでもボビーでもなく彼の声だったけれど、「ボディガード」での彼女の起用についてのコメントには何なんだよと思ってしまう。グラデーションで「私は私」(と他者が言うことがなぜ抑圧たるか)問題と繋がる。更には映画「ドリーム」の役どころにまで繋がってるように見えてきた。

22年目の記憶



「ヨコヅナ・マドンナ」「彼とわたしの漂流日記」が楽しかったイ・ヘジュン監督の2014年作品。「漂流日記」で初めてちゃんと認識したジャージャー麺が今回も印象的に使われていた。


リア王」リハーサル中の客席を掃除しながら舞台のセリフを諳んじる男…って北島マヤかよと思いきやそのキム・ソングンソル・ギョング)は長年芽の出ない劇団員なのであった。彼の苦悩は役をとられる、舞台にあがれない、すなわち誰にも見てもらえないことにある。彼にとって演劇は観客がいることで完成する。仲間はその認識を共有しているから、94年のあの時に「治療」になればと「俺が見たから」と言うのだ。


面白いのは1972年から1994年までの22年が全く描かれないところ。94年に飛んで突如登場する息子テシク(パク・ヘイル)のくたびれた感じの風貌に、父の苦悩よりも息子のそれの方がずっと想像し得るため胸が痛くなる。彼がネズミ講の講師をしているのは、人前で喋る職業には総じて役者の要素があるから父の血を引いているといっていい(最後の「スピーチ・珠算」然り・笑)。加えてこの場合、いい車に乗りいい所に住みそれこそ背が高く見える男を演じてもいる。どんな人間でも「演じる」ことをしているのだとも言えるが(後にキム・ソングンは違う形での「演技」もするのだし)振り返ると作中、演じることに関わっているのは男だけである。女の蚊帳のソト感は否めない。


冒頭テシクが父の仕事について友達に認めてもらえないとこぼす場面がやけに多いと思っていたら、この映画は私には、22年越しの「お父さんの職場を見てみよう!」だった。モニター越しに彼が父の仕事ぶりを初めてきちんと見る場面で涙があふれた。それにしてもあんな大根役者だったキム・ソングンになぜあんな名演技が出来たのか、あの状況下でいいように使われたあの二人と組んで才能が開花したのだとしか思えない(劇団じゃ「セリフを言ってればいい」としか言われていなかった)。南営洞での観客無き三人のシーンも切なく思い返される。