平日の記録



秋の限定お菓子。
東京駅構内で見つけて買ってもらった、「ひよ子」の創生100年記念商品「東京お芋ひよ子」。薩摩金時のあんが秋っぽくて嬉しい。
エストの復刻版「柚子ケーキ」も三越伊勢丹限定商品。可愛くて美味しい、けどやっぱり小さい…(笑)



チェーン店で食べた、ぱっと見は似ているお菓子。
エクセシオールカフェにて、コーヒーのお供に新商品のティラミス。大きさも甘さも手頃な感じ。
久々に立ち寄ったブレンズコーヒー青山店では、ショーケースを眺めて、一つ残ってたナナイモバーを注文。一見ティラミスに似てるけど、カナダのこのお菓子、超甘い!落雁に砂糖をまぶしたかのようなくどさで、半分しか食べられず持ち帰ってきた。

フランシス・ハ



「猫を二匹飼うんだ」
「なぜ二匹も?」
「一匹じゃかわいそうだから」
「飼わなきゃいいのに」


実はそれほど書きたいことが無いんだけど、苦手な渋谷まで出掛けて見たから、記録を残しておきたくて…
オープニングからずっと面白くなかったけど(「不愉快」というわけじゃなく「何」も感じなかった)、ある所から心にすっと入ってきた。それはフランシスがパリで電話を受ける場面。なぜそうなのか、自分の脳を誰かに見てもらい、説明してもらいたい。
夕方4時半に起きるのは確かに遅い、でもそこからでも何かはあるし、何なら明日もある。それってこの映画と私の関係かもしれない、こじつけだけど(笑)ここで終わればハッピーなのに、という場面が何度かあるけど、そこでは終わらない。生きていかざるを得ない。そういう映画は嫌いになれない。


中盤、フランシスは「恋」には「特別な時」が欲しいと語る。しかし終盤、彼女が得る「特別な時」は「恋」によらないそれ。あの場面と、現在のフランシスの人生の登場人物達がそれぞれ見せる笑顔とは、映画の卑怯とするか、そうしないか、私としてはギリギリのところだ。
「友情」と「恋愛」というものがあるとしたら、「普通」に生きざるを得ない殆どの人にとっては、それらが「区別」されていることは否応ない結果でしかないと私は思うから、色々考えているふうなのに、その否応なさが描かれていない映画というのにはむかついてしまうのかもしれない、なんてことを考えた。

リスボンに誘われて




肺気腫の叔父に煙草を渡したのね」
「体に悪いと言うならあそこにいることが悪い、監獄を思い出す」


(あれこれあって)


「叔父も喜んでたわ」
「君が煙草を吸うのを許したからじゃないかな」(二人、笑う)


センチメンタルである(「センチメント」を嫌う者がいるのに)、非政治的である(「政治」を扱っているのに)、そして極めて「映画的」である、という意味で「甘い」映画だけど、とても面白く見た。好きな類の、レベルの甘さ。


オープニング、書物で一杯の薄暗い部屋でチェス盤に向かっている初老の背中。おそらくいつもなんだろう、目覚ましより先に起きた彼が「一人チェス」をするその描写から、何故か、この映画が分かりやすく愛らしいものであることが伝わってくる。
実際ジェレミー・アイアンズ演じるこのライムントは、カーテンも開けず昨日のゴミのティーバッグで朝のお茶を飲み、よれた上着にくしゃくしゃのハンカチを持ち歩くような男ながら、どこへ行っても人に好かれる。リスボンへ着けば「海の見える部屋」に案内されるし、職場を飛び出してきたのに責められもしない。彼よりはずっと若い検査技師の女性など、一目会った時から、いやその前から思いを寄せているかのようだ。


ライムントは高校教師である。冒頭の授業において、彼が答案を返しながら一人一人に言葉を掛けるのは「見学者」の前だからか?(と思いながら見ていたら、作中「想像力は最後の聖域」という言葉が出てきたのが可笑しかった)ともあれ彼は、その暮らしぶりに比べ、仕事においては情熱を失っていないように見える。だからクリストファー・リー演じる神父の元で、荒廃した、かつての教室に立つ場面に妙味がある。
ちなみに「列車まであと5分」のラストシーンには、ファティ・アキンの「太陽に恋して」を思い出した。「教員」が「堅物」の記号であるような、そんな映画だけど、モーリッツ・ブライブトロイ演じる実習生が女性を追って旅に出て、恋人が出来、帰りの橋で映画が終わる。彼はあの後、教師を続けただろうか?教員の「その後」はいつも気になる。


始め、ライムントは野暮ったい眼鏡を掛けている。それは通勤途中、橋の上で傘を放り出すや水滴だらけになり、リスボンに着いてカーテンを開け放つと海を映す。そしてそれらの急激な変化に耐えられないとでもいうように砕けてしまう(尤も、もっとスマートな「壊れ方」は無かったものかと思う・笑)
新しい眼鏡を受け取った彼が、鏡の前で古い眼鏡と掛け比べてみる場面に、そうそう、新しいのを作ると、古いのは不思議なくらい「合わなくなる」ものだよなあと、懐かしいあの感覚を思い出す。そんなふうに、泥臭く肉体に訴えてくる映画でもあった。見せなくてもいいような血まみれの画もある。


ライムントが訪ねる人々は煙草を吸う。数日前に見た「フランシス・ハ」における喫煙行為は、社会にまださほど参加していないことを意味していたけど、この映画では、人々は社会に生きながら、もしかしたら「過去」があるがゆえに煙草を必要とする(「何」も無いライムントは、リスボンで勧められるまで煙草を吸ったことがない)。「フランシス・ハ」の方がより「社会的」で、こちらは、革命の時代をも描きながら随分「個人的」な姿勢の映画だなと思った。
ライムントはディナーの席で、自分が「退屈」な人間であることの印として、パーティでの出来事を話す。ペソアの詩の一節について「理解できる者は少ない」と口にしたため、場が白けてしまったと。技師のマリアナは「あなたは正しい」と返す。この文章の最初に挙げた二人の煙草についてのやりとりから、「正しい」とは何かと思う。


「本」に出てくる一人の女性の「現在」を、私の好きなレナ・オリン様が演じている。最後に彼女を訪ねたライムントを、おしゃれな家におしゃれな格好、びっちりした化粧で迎える。「そういう人」には見えず、何か違うんだよなあと思わせる。ジェレミーが愛されまくるのもそう、そういう映画ではある。
そうした中でも素晴らしいのがシャーロット・ランプリングで、彼女はどんな映画にあっても圧倒的だ。ドアをノックする前に髪を撫で付けるジェレミーのそれと、スカーフをいじる彼女のそれとは何かが「違う」ことが登場時に分かる。それにまず容貌のいいこと、あんな喪服の似合う女になりたい。


追記1…あっという間にこれだけ書いたけど、心に残っているのは「現在」ばかり。「過去」のことがよく見えなかったせいか、駅でのライムントの言葉に違和感を覚えてしまった。また政治色が薄いせいか、「赤いコートの女性」の自殺の理由も浮いて感じられた。こうしたことを「埋める」ため、原作を読んでみるつもり。

追記2…本作の鍵となるのが、引用されるペソアの「野原は緑の中よりも描写の中でのほうがいっそう緑だ」という言葉なら、「緑」と「描写」は「革命」と「本」にあたると思うんだけど、そのことを分かっているはずのライムントが、なぜ自分の人生をつまらないと思うのか、やっぱり疑問。よってやはり原作を読んでみるつもり。