白い車に乗った女


後輩の運転する車の鏡を見ながらようじで歯をせせるのに登場するイ・ジョンウンとは少し前までそうそう見られなかったものだ(大好きなドラマ『デッドロック 女刑事の事件簿』(2023年オーストラリア)などに比べたら全然小綺麗なものだが)。彼女演じる中年女性の「刑事じゃないけど」警察官のヒョンジュと後輩ヨンジェ(イ・フィジョン)の組み合わせもよく、彼が三段警棒を、彼女のチャッ!の後でチャッ!とやるのがいい。韓国ではああいうのも年長者が先なんだろうか。

(以下「ネタバレ」しています)

最後にドギョン(チョン・リョウォン)とウンソ(キム・ジョンミン)が確認する、ヒョンジュがドギョンの導きで到達する(が『オリエント急行の殺人』にする)「真実」は、他人同士の二人の女が「天才作家」であるドギョンの考えた筋書きを被せて殺人を隠蔽したというものだ。ドギョンを虐待監禁し金を奪った姉ミギョン(チャン・ジニ)とウンソの妹を拉致監禁した男ジョンマン(カン・ジョンウ)が死んだところで二人は何も取り戻せないが、ヒョンジュを含め三人はそれぞれ「(私を傷つけた)あんたの知らない遠いすてきなところ」へ発つ。

「真実」が明らかになっていく過程はそう面白いものではないが(不快という意味ではなく、私はもうああいう形式に飽きているので)、ドギョンとウンソ、ドギョンとヒョンジュという女同士が交わす、致し方ない都合や嘘にまみれた言葉の中にふと心から心に届くものがある、それがとてもよかった。女には女の言うことが分かるから…とは『落下音』(2025年ドイツ)の手触りにも似ている。ドギョンがウソンに言う「出発する時、車に乗せて」が何か心湧きたつ比喩のように感じられ、そこで引き込まれた。

ドギョンがこの映画のタイトルである自分の著書をヒョンジュとヨンジュに手渡したのは、ヒョンジュがかつて父親にされた水に顔を沈められるという暴力を自分で自分に施しているのに似ているとも思った。彼女の「それ」をドギョンも宿舎の管理人の女性(チャン・ヨンナム…だと思ったけどクレジットがなかったから勘違いかな)も心得ており、顔を見ただけで風呂場の鍵を渡す、渡される、その手と手が印象的だ。あの二人は別れの挨拶を交わしたのだろうか。

オールド・オーク


シリアでは多くの子どもが破壊や占拠により学校を失ったが、イギリス北東部のかつて炭鉱があった町でお腹を空かせ「私がいなくても学校には関係ない」と帰ってくるリンダもまた学ぶ機会を奪われていると言える。ポテトチップスだけの食事で倒れた彼女を送って空の冷蔵庫を目にしたシリアの女性ヤラ(エブラ・マリ)は、ローチの映画で交流の場として出てくるのは珍しい美容院での女同士のお喋りを経て、ローラ(実際に慈善団体の職員であるクレア・ロッジャーソ)と共に「子ども達を飢えさせない」ための食堂の開設をパブ経営者のTJ(デイヴ・ターナー)に持ち掛ける。TJの手から皿を受け取る子ども達の「今日だけ?」「絶対タダ?」に心が痛み、終盤の「いいことは長続きしない」「そうなると思ってた、うそつき」には違う意味で一番刺されたが、これは希望を持たなきゃ何も始まらないからやめるなという話である。

シリアから人々がやって来る経緯は映画でも様々だ。最近見たものならジュリー・デルピー『バーバリアン狂騒曲』(2024年フランス)は「全会一致でウクライナ難民の受け入れを決定するが、やって来たのは…」というコメディであった。本作の場合、かつては手に入れることが誇りだった家を顔も見せない奴らに買い叩かれている住民達は国が(不動産価格の安さから)難民を「送り込んでくる」ことにつきここはゴミ捨て場だと憤懣やるかたない。しかしTJは幼馴染のチャーリー(トレヴァー・フォックス)の「一線を引くための集会を奥の部屋で開きたい」との依頼には耳を貸さない。炭鉱の歴史を語る写真に「労働者が団結すれば世界は変えられる」「一緒に食べれば一つになれる」との両親の言葉が詰まった、言うなれば『1945年の精神』(2013年のドキュメンタリーのタイトル)を幻想として閉じ込めたそこは憎しみでは開かない。

アキ・カウリスマキ『希望のかなた』(2017年フィンランド)はプロの役者であるシェルワン・ハジをシリアからの難民である主人公に据えアキの分からないアラビア語でも語らせたのが特徴だったが、同じ頃を舞台にした本作のやり方は真逆で、心情を吐露するのはTJの方である。一度目は「友達以上の対等な存在」である犬のマラを亡くした時、二度目は友人ら、とりわけチャーリーに裏切られた時。「世界有数の裕福な国に食べられない子どもがいて、助けようとすると潰される」「踏まれっぱなしのドアマットみたいな奴ら、期待しなきゃ何も始まらないのに」。この10年でこの問題につき何を省みるべきかが変わったのかもしれないと考えた、掘り下げるべきは自身の側であると。墓地で「追いかけるな!」と追ったマラが殺されてしまったことが最終的に彼の背を押したことから、状況により誰がどの立場になるか分からないとも思う。

エンドクレジットに「話をシェアしてくれた、匿名を望むシリアの人達」への謝辞があった。作中にはTJとヤラの「英語が上手だけどどうやって勉強したの」「毎日単語を20ずつ覚えると決めて6か月やった」なんてやりとりがあるが、こういうのはいわゆる説明台詞ではなく、私達が知りたい、知るべきことを教えてくれているのだと言える。彼女の「家族やコミュニティのために強くありたいから強いふりをしている」という事情だって知るべきだ。そして終盤の町の人々のsorryからの行動は、ヤラの「世界に見捨てられた時に私達はほろびる」への応えであり、この映画はその気持ちがあるなら連帯できる、あのエンディングに繋げることができると言っているんだろう。

平日の記録

新しいカフェに行った記録。
品川での予定の前に時間があったので、大井町トラックスのレジュドベベで看板「4種のパンメニュー」。パンは美味しく、風があるせいか他に誰もいなかったけれどテラス席から電車も見えて最高だった。
三省堂書店神田神保町本店の喫茶ちそうでは、甘味が全て売り切れていたのでマーズサンドを注文。ベーコンとマッシュポテトとオリジナルスパイスのサンドイッチで、面白い味だったけどしょっぱかった。今度はスイーツを食べたい。

海辺の恋/オー・パン・クペ


シアター・イメージフォーラムのギィ・ジル特集上映で長編デビュー作と次作を続けて観賞。

『海辺の恋』(1964年フランス)がその時々の自分に合う場所を求める男達の話なら、『オー・パン・クペ』(1967年フランス)はそんな場所などなかったら?という話である。月にでも行きたい、この世界はぎちぎちに縛られているとジャンヌ(マーシャ・メリル)に打ち明けたジャン(パトリック・ジョアネ)は「遠くに去るふり」をして近くに去る…すなわち彼女の人生と異なるレイヤーへと逃げる。しかしそこも彼の世界ではなかった。

『海辺の恋』のジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・テニエ)は二人の部屋を望むが叶わず、『オー・パン・クペ』のジャンヌは二人の部屋を失う。ここでは女にとっては一人であるか二人であるかが「場所」にあたるのかもしれない、だからジャンヌは去られるくらいなら訃報を聞く方がいい、偶然会うのが怖いと言うのである。逃亡の果てに男は死に、「生きる喜びを与えられなかった」女も自らの場所を失い寝付いてしまう、取り壊し中の建物を前に「思い出と共に死ぬまで生きたかった」と話すベールの女性を思い出しながら。

休暇の始め、カフェで戦争について話すダニエルとジュヌヴィエーヴの前に置かれた水兵帽とハンドバッグというそれぞれの「いつも」のしるしの鮮烈さ。ダニエルのそれをふざけて叩き落としもしたギィ・ジル演じる友人が「君が好きだ、手紙を書いてくれ、結局ぼくらは似ている」と窓の外を自転車で手を振りながら去ってゆく姿の美しさ。それに比べたら素朴だが窓辺に座ったジャンヌの「どんな色も美しい、全てが自然に還る」という語りも強く訴えかけてきた。

冒頭年上の女性とあまりに間近に向かい合って身綺麗にするジュヌヴィエーヴが私も好きな人と20年連れ添いたいと言う時、彼女がそれより若いとも、それが戦後の年月と同じだとも分からない。『海辺の恋』の蚤の市で買ったという雑貨の数々や骨董品、『オー・パン・クペ』の昔の写真や絵葉書、あるいはフランスのあちこちに内在する時間は人々の人生よりゆうに大きい。そういう映画が少ないわけではないが、それを信じて映画のカットとしていわば堂々と映すセンスがいいなと思いながら見ていた。

今日からぼくが村の映画館


「ペルーの公用語の一つであるケチュア語の映画としてペルー映画史上最高の興行収入を記録した」との宣伝文に惹かれて見に行ったんだけど、それこそが一番の肝だった。自分の言葉の物語を欲する話、それを映画の中でも外でも実現する話なんだから。

アンデスの小さな村、子ども達を荷台に乗せて走る車への少女の「待ってー先生!」に、移動手段が他にないので当然の、子どもと先生が一緒の登校風景に引き込まれた。開放的な作りの学校には中年女性の先生が一人、子ども達はその元に国旗を揚げてわれらは自由、これからもそうだとスペインからの独立を確認する国歌を歌う。授業では朝イチで分厚い法律の本の、子どもには保護を受ける権利、暴力や搾取から逃れる権利があるとの文を読む。このような教育をしている先生が映画を肯定的に捉えているのだから、この映画自体も映画というものを政治的に位置づけていると分かる。

主人公の少年シストゥの姉は都会へ出て戻って来ず、町へ出掛けた父親が聞くと「もうスペイン語で喋ってるよ」。公用語じゃないけど韓国や日本にとっての英語みたいなものだ。父親はシストゥが学校へ行くと村を忘れると…つまり教育を受けず村の子ども達がずっとそうしてきたように早くから働けと言い、母親は学校へ行って医者になり村の役に立ってほしいと言う。晩に夫が「抱こう」とした際の(この時のおまえの髪は闇のよう、頬はりんごのようという文句は慣用句的なものなのか?)妻の嫌というより悲し気な表情が心に残った。また町の男がこの父親に言う「女は待たせておけばいい」なんてセリフは、「進んだ」社会でも、あるいはこそ、女性はより虐げられると言っているようだった。

シストゥが町の移動映画館で『ドラゴン危機一発』や『魔人ドラキュラ』を見る時、この映画は壁に映し出されるブルース・リーやベラ・ルゴシの目をまず映す。マイケル・ケインが著書で役者とは自分の瞳が何メートルにもなる職業だと書いていたのを何かにつけ思い出すが、映画が初めてならあれが衝撃かもしれない。しかし「写真が動く」のを見るだけでは人は満足できず、スペイン語を学んでいない大人達は話が分からないと帰ってしまう。とはいえ自分達の知らない物語の存在に気付けばそれを無視することはできず、シストゥに「村の映画館」になってもらうのだった。これには物語というものの意義と、様々を日本語に翻訳して伝えてくれる職業への感謝を思った。

週末の記録

「羊山公園芝桜の丘」は今年で25周年…ということは最初の頃から行っているわけだけど、満開の時期が以前は大型連休中だったのが次第に早まりいまや新学期が始まるのとそう変わらない。ちょっと驚きだ。
行きのラビューでは私が作った焼いた鯖とゆで卵とすんきのディップをのせたヴィロンのレトロドール、着いてからは同居人が作ってくれた村上の鮭と菜っ葉のナムルと焼きキムチのおにぎりを食べた。みそポテトやたけのこなどを買い、帰りは久々の泰山堂カフェでヌガーグラッセとコーヒー、ハチドリのひとしずく。美味しかった。

スターストラック わたしがアイドル!/マイ・ガールフレンズ・ボーイフレンド

サム・フリークスVol.34にて「ライヴ映画2本立て」を観賞。


▼『スターストラック わたしがアイドル!』はジリアン・アームストロング1982年、オーストラリアでの二本目の監督作品。オープニング、電話ボックスの中のジャッキー(ジョー・ケネディ)の左右違う色に先のとがった靴、赤い髪に真っ白ではない歯…。

ジャッキーのステージの後でアンガス(ロス・オドノヴァン)が駆け込む控室ではタバコに酒にセックス(「女」とは感じさせないあたりがやはり女性による作品)が繰り広げられているし、ジャッキー自身も「そんなガキみたいなこと」と言うし、ティーンエイジャーは皆大人になりたがっている。ロビー(ネッド・ランダー)がギターを弾くウォンバッツ(!)のバンと同時にジャッキーとアンガスを乗せたオープンカーでパブの前に到着する(この場面好き)人気タレントのテリーが多分理想の大人で、彼女はあわよくばロビーからテリーに「乗り換えたい」(セックスしたい)と思っている。しかし彼は実際には「歯車」であり、彼女にもそうなるよう勧めてくるのであった。

あの頃の少女漫画、正確にはもっと前の数々の作品から、主人公は大人の女に憧れていたものだとふと思い出した。でもどんな?身近な女性といえばジャッキーの多忙なママ(マーゴ・リー)は隠れてよくしていた義理の兄に金を盗られて逃げられるし、ナナおばあちゃん(パット・エヴィソン)は入れ歯を飲み込んで意気消沈。高速道路脇(というのは今の映画でもそうであるように取り残されていることの比喩だろう)のパブはろくに泡も立たないビール代が払えず立ち退きの危機にある。それが最後の自由なステージの後ではテレビ局のスタッフ始めあらゆる大人が楽しんじゃって、もう死ぬかもなんて言っていたおばあちゃんも水晶玉を出して得意の占いを始める。スターってそういうことかと思う。

しばらく前に見た『大丈夫、大丈夫、大丈夫!』(2023年韓国、感想)では男達が女達の中に踏み込まず支えるだけの役どころだったのが印象的だったものだけど、ここでもそうで、確かにこれが女の子映画の一つの正しい形だと思う。「ジャッキーこそ真のスターだ」と駆け回るアンガスは勿論(この辺りはドラマ『無人島のディーバ』(2023年韓国)を思い出していた、こういう作品って逆に最近ない)、ボーイフレンドのロビーが他の女の子に好かれている描写がちらとあるのもいかにもだ。


▼マイク・バービグリア2013年のスタンダップスペシャル『マイ・ガールフレンズ・ボーイフレンド』はシアトル公演の収録。後年なら「地雷原をいく」(言葉ママ)と言いながらなされそうなネタが特段ことわりなしに進んでいくのには、ああいう言葉、あるいは文脈の大切さをひたすら訴えていたNetflixでの一作目『マイク・バービグリアのジョークの神様、ありがとう!』(2017)自体が配信されることを踏まえてのものなのかなと少し考えた。

「Tボーン」の場面に始まって時間を巻き戻して「Tボーン」に戻るという映画みたいな構成。その内実はパートナーのジェニー(なぜ「クロー」なのか聞けるのかと思いきや聞けなかった)との出会いから結婚まで…という意味では子どもを持つのに至る『マイク・バービグリアの新しい世界!』(2019)と同じだが、こちらでは映画で言うなら回想シーンの数々が見事に挿入され、更に「正しいこと」へのこだわりからの解放が伴う。タイトルは自虐ではなく、いまや受け入れた「正しくないこと」の意なのかもしれない。

(いちおう書いておくけど、映画みたいというのは、落語がそうであるように、私はその人が喋るのを見たいのであって、映画にすればいいのにという意味ではない)

なぜセックスが車の運転に通じるのか(『新しい世界』参照)と思いながら聞いていると、かつての彼にとってキスすることは「『キスしていない組』からの卒業」、恋人ができることは「ミッション完了」、すなわちキスや交際そのものではなくその社会的意味とのしぶしぶのつきあいであり、結婚だけはそれにのるまいと踏ん張っていたわけだ。それがジェニーとのやりとりでほぐれていく。これが人間関係というものだ。