母の聖戦


原題は『市民』、これが的確。タバコを吸わざるを得なくなった、そして今も吸っている女性がふと救われる(「何」によってかは何とも言えない)あのラストシーンは、映画が終わって出る「シエロのモデルになった女性達に捧ぐ」に繋がっている、つまり彼女達に捧げられているんだろう。リアルな二時間超の後の曖昧なこここそに、テオドラ・アナ・ミハイ監督から彼女達への思いという「現実」が最も表れているように思った。

冒頭「パパの言いなりになってばかり」と娘に言われていた母親シエロ(アルセリア・ラミレス)が、もう誰の言いなりにもならないと心に固く決めてやり抜く話である。序盤に打ちひしがれて帰宅した彼女は飼っているトカゲを手にかけようとするも思いとどまる。自分の手の内にあるものに当たるのではなく自分を潰そうとするものに立ち向かおうと決める瞬間である。彼女は葬儀屋のオーナー、息子をさらわれみかじめ料を取られている小売店主、夫に聞かないと車を貸せないと言う向かいの家の母親といったどうしようもなく誰かの言いなりになっている女性達から少しずつ協力を得て前進する。それは彼女の強靭な横顔に集約されていると言っていいが、彼女自身は借りた力について振り返りはしない、そんな暇はない。

シエロと協定を結んだ軍は彼女の集めた情報を元に犯罪が行われている場に何度も踏み込むが、末端の犯罪者に暴力を振るう、時には殺すというその場限りのことしか行わない。責任者である中尉とシエロが一緒に収まっている場面の、全くもって何も繋がっていない感じがすごい。見ながらふと、主人公シエロを表すなら「孤高」だが一般的に使われているのとは意味合いが違う、いや本当は孤高ってこういう地味なものなんじゃないか、あるいは実はこのような在り方を表す言葉が無いのではないかと考えた。

世界は僕らに気づかない


オープニング、純悟(堀家一希)とレイナ(ガウ)が暮らす家にあふれる小物の数々につき、フィリピンのなんだろうなというものから金鯱の置物など母親のお客絡みなんだろうなというものまで彼らの家にあるだろう物を調べて揃えたんだと思い、そこでぐっときた。純悟を捉える屋上の柵や自転車のサドル越しの映像は見る者の存在、すなわち作り手の、私は見てる、あなたも一緒に見ようという意思を感じさせる。ラストシーンの違和感を覚えるほどの拍手の規模も作り手と私達が一緒に送ったからなのだ(だからこそ、パートナーシップ宣誓制度だけでなく「普通」の結婚ができればと思う)。

最初の親子の会話は父親からの養育費を電気代に充てるか否かという言い争い。「マミーの子なんだから言うこと聞いて当たり前」と家族と全てを共有して生きてきた母親とそこから逃れたい息子の間の齟齬。それは「気付かれない」者達の間に生じる断絶であり、作中のかなりを占めるマミーの怒号はその叫びに思われた。予告では「フィリピン人で、フィリピンパブ嬢の子なんで」で切れている純悟の言葉に続くのは送金地獄との一言だった。映画はその家族のあり方を否定はせず、しかし意思による、当人の幸せのための家族の誕生を焼き付けて見せてくれる。

わざとらしく機械的に撮られているだーい好きだよ!が客への営業電話という日常に埋没し純悟に向かうことがないのも、いつまで経っても漢字を覚えないのも、レイナに「そんな暇はない」からであって、鮭の食卓で「本当にほしかったもの」を打ち明けられた彼女が「なーんだ、そんなもの」と返すのには、張り詰めた部屋に吹き込んだ一陣の風を感じて涙が出た。作中ではずっと息子が母親を見ているのが、映画の終わりの終わりには母親の方こそ息子をずっと見ていたことが明かされる。

例によって「教員は何やってんだよ」(お弁当のシーンね)と腸が煮えくり返るが、教師が絶対言ってはいけない「真面目に考えなさい」(なぜ真面目じゃないと思うのか?)然り、教会のシスターまでもが、純悟の家族に対する言葉をまっすぐ受け取めようとせず距離を置く。彼らは露骨に差別するわけじゃないが役には立たないし、差別してくるやつもうようよいる。家族の誕生にあたりよろしく頼んだり頼まれたりが頻繁に行き交うのを始め奇妙な気持ちで見ていたけれど、こんな世の中じゃそれが必要なんだと、つまりそれが要らない私は呑気なものなんだと気付いた。

一つ引っ掛かったのは、渡辺や元木といった「普通」の結婚をしている(していた)「普通」に見えるおじさん達に甘すぎないかということ。そういう夫婦関係もあろうけど女性に負担を強いすぎである。渡辺の「彼女達の笑顔を見ていると…」なんてセリフも、「フィリピンパブ」を巡る問題自体に触れない姿勢は理解するが今の構造を肯定しすぎだと思った。

そんなの気にしない


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞、2021年エマニュエル・マール、ジュリー・ルクストル脚本監督作品。格安航空会社の客室乗務員の仕事の、映画であまり見ることのない部分も詳細に見せることで、その仕事そのものじゃなく仕事というもの、あるいは社会の理不尽を描いている作品。

30分程見たところでアデル・エグザルホプロス演じる主人公が自分の名を口にし、私達はそこで初めて彼女の名前がカサンドラだと知る。ジュニアスタッフとしての契約が切れたら解雇かパーサーへの昇格しか選択肢がないと告げられた彼女は後者を選択し、その時から名前を持つ存在となるが、上司いわくの「成長の機会」とは「自分の感情、過去や未来を全て消し去った今だけの存在」になることだった。自身の心に従って行動したカサンドラは同僚の評価を主観的に行ったりマニュアルにない接客をしたりしたという理由で移動を命じられ、数年ぶりに実家へ帰る。

実家での場面の数々から、カサンドラは家族に起きたある悲劇の責任を感じ逃げるように家を出たのだと分かる。「なるべく飛びたい」と飛行に飛行を重ねていたのは悲しみから遠く離れるためだったのだとも。仲間とのひとときを経て父や妹の(いわゆる「普通の人々」の)仕事ぶりにも触れた彼女は心を決め、リキッドファンデーションを厚く塗りこめてドバイの自家用ジェット会社の採用面接に臨む。それまで以上に自身を消すことが求められる職にスムーズに受かった彼女は映画の終わり、ドバイ・モールで光のショーを見るのだった。作中このラストシーンのみ現実と重なる「コロナ禍」の実際が収められており、撮影の都合なのかもしれないけれど、私には、このような女性が今どこかに生きているというメッセージのように思われた。

ブートレッガー 密売人


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞、2021年キャロライン・モネ脚本監督作品。国が同化・支配政策の一端として先住民に敷いた禁酒法とそれゆえ横行する密輸入につき、出て行き戻ったマニ(デヴァリー・ジェイコブス)が「勝っても負けても知識があれば必ず前進できる、お前は一人じゃない」との祖父の言葉通り、50年前の首長の言葉からも学んで変化を起こす。モントリオールの法学生として登場する冒頭とラストシーンとの顔つきの違うこと、振り返ると始めは「都会」に混じるため仮装していたように思われる。

マニと正反対の、いや彼女の「先住民の母の言葉(アルゴンキン語)を覚えず、彼女が出て行った後は娘とオタワに越した」父親を反転させたキャラクターが白人女性のローラ(ブリジット・プパール)。ある理由でマニを憎む先住民の男に惚れ、酒の密売を行うという形で圧し潰されたかの地に順応しているがために前に進めない。彼女が車で居留地を出て酒を仕入れる場面で至極簡単にビールを一杯飲む場面からは禁酒法の、その後の男の嫌がらせ(「(先住民の男のために)首輪でも買ったのか」)からは差別の異様さが伝わってくる。

主演のデヴァリー・ジェイコブスは先住民の役者、映画祭の紹介ページによると現地の人も多く出演。鹿の肉に始まる食生活や煙草などの嗜好品、氷上のボウリングや花火といった若者達の遊びなど土地の文化の描写が楽しい。また映画の始めと終わりは対応しており、主人公がいわば、俗な言い方をすれば「落とし前をつける」物語と見れば、形だけなら男の話として見てきたものである。ごく普通の女達、のらりくらりと変化を拒み権力を維持するのも女(マニの叔母)、そのあたりも見ていて気持ちよかった。

ノーマ・レイ


「ステーキを平らげて3回もセックスしたのに何が不満なんだ」とモーテルで言われたノーマ・レイサリー・フィールド)いわく「気持ちがしっくりこない」。嫌だ、変だと思うがそれが何なのか言葉にできない。似たような感覚は10代の頃に覚えがある、女友達と男にこんなことをされたあんなことをされたと言い合うもフェミニズムを知らなかった頃のこと。おそらく彼女の内では既婚の男と未婚の自分の関係と、職場の経営陣と自分達の関係とが重なっている。山程のトッピングを施せば食べられるが実際は何なのか分からないホットドッグを日々腹に入れている。それを吐き出して捨てるのは「贅沢」なのだろうか。

視察にやってきたルーベン・ワショフスキー(ロン・リーブマン)が勤務中の工員達に名乗ったり質問があればモーテルの部屋へと話し掛けるのを見ているノーマの苦しいような切ないような表情に、冒頭からの絶え間ない轟音は単に悪辣な環境というだけでなく弱者同士が声を掛け合うこと、助け合うこと、すなわち連帯、加えて外部からの情報の入手を妨げるものの象徴なのだと分かる。ノーマが「UNION」を掲げる時ようやくそれが打ち破られる。一人ずつが音を消すことでそれが成されるというのが面白い。

「あなたと会う時いつも男と何かある」とルーベンに言うノーマがソニーボー・ブリッジス)と飲む際に彼を呼ぶのには、見定めてほしいとでもいうような欲求を感じた。帰りの車のハンドルを握るのはルーベンである。結婚後「黒人なんか家に入れたら問題が起こる」と言ってノーマに「問題は白人の方にある」と返されるソニーは、物語の最後に「女闘士なんてまっぴらだ、これからどうすればいい」と嘆いてルーベンに「彼女は立ち上がり解放された」と教えられる。そうだ、自分次第なのだと理解した彼は「何があってもそばにいる」と決めそう告げる。「幸福とは男と女が愛し合うこと」と即座に答える人間のよりよい生き方がここにあると思った。

ニューヨークでのルーベンの「オペラを見て中華を食べてベッドに入る」といういつもの暮らし、すなわち「世界中」と接する世界に「ホームシック」になるというのは考えたら面白いが、多くの人にとっての東京だってそうだろう。露骨なユダヤ人差別の残る田舎町に彼が居づらいのは当然だが、それでも今はと男達の中に入り木片と一緒に手も削ってしまったり牛のうんこの上にけつまずいたりというくだりが作中唯一の、という程じゃないけどちょっとした笑いどころになっているのが心に残った。まるで何かと引き換えのようで。

「君は美しい」「18の時はともかく今は…」「ぼくには今もきれいだ」なんてのも古いけど(「今」の映画なら舞台が当時でもそのようなセリフは省かれるだろう)、「今」の感覚からして最も違和感を覚えたのは、紡績工員労働組合の本部からやってきた男達がノーマを外せと言う、その理由…「色んな男と寝て子どもまでいる、そして君(ルーベン)のベッドに寝ている」(という噂が立っている)に対し全くもって馬鹿げていると二人がはっきり口にしないところ。「警官とポルノに出ていた」のが本当だとて何なのか。今もあのような言いがかりは横行している。抑圧や嫌がらせの精神は変わらず対する側のいわば心構えのようなものばかりが何とか前進しているということを思うと残念な気持ちになる。しょげはしない、対抗してこう!と奮うわけだけども。

ドリーム・ホース


近年の映画の馬といえば『荒野にて』『アメリカから来た少女』のように若い主人公に寄り添った視点で見ることが多かったから、本作のように「あなたはそのために生まれてきた」(!)と語り掛けながら、「何も求めない、与えるだけ」の存在と分かっていながら「ローカル・ヒーロー」たる馬に賭けるという物語、昔ながらの作劇が却って新鮮だった。たまたま前日TLに昨今はエンパシーでなくシンパシーばかりが重視されているという話が流れてきたんだけど、これは前者が高まる作品。

勤め先のスーパーの客の苦情より売り場の雑誌のページを破って盗むことを、夫ブライアン(オーウェンティール)のお喋りより取り寄せた本を読み耽ることを優先するようになるまでの、主人公ジャンを演じるトニ・コレットの、あんな演技は久しぶりに見た。近年の彼女の出演作では『アンビリーバブル』(2019)が一番という認識は揺るがないけれど、ここでの出口のない水の中でひたひたとたゆたっているような表情は見事。動物の育成経験が豊富な彼女が呼び掛けて作った馬主組合皆の夢は馬が預けられ目の前から消えても強く続く。「私にはこれしかない」とチョコレートを山程まとめ買いしていたモーリーン(ウェールズ出身のシアン・フィリップス)がカレンダーのレース当日までバツ印を付ける、あれがジャンの言う「人生が変わるという気持ち」なんだろう。

映画は馬のいななきに模したブライアンのいびきに始まる。アラームの前から目の覚めていたジャンはベッドを出ててきぱきとルーティンをこなす(ここの編集が軽快で素晴らしい)。この手の描写を見るとなぜ寝室を分けないのかと思ってしまうものだけど、この映画の場合は見ているうちに今も二人の心が奥底で繋がっていることが分かってくる。その証拠にジャンの両親の家や馬主組合において彼らは二人で最小の単位としてきちんと機能している。そして父親が死んだ後に、いったん腰を落とすと立ち上がれないと座りっぱなしだった母親(リンダ・バロン)が歩行器を横にテレビでレースを見ているのがいい。歩行器があるじゃないかという。

先月見た『ようこそレクサムへ』(2022)はロブ・マケルヘニーとライアン・レイノルズウェールズレクサムFCを買収するのに始まるドキュメンタリーで、クラブの昇格と町の復興を共通の目標とする皆の中でも町のサポーターの面々が主役だった。楽しみつつもここには描かれていないことがたくさんあるよなという印象を受けたんだけど(そもそも後で知ったことにレイノルズは妻のブレイク・ライヴリーに黙ってチームを買ったんだそう)、それはドキュメンタリーの体をとった作品の見方としては正しいのかもしれないとふと考えた。本作の元になった実話もドキュメンタリーになっているそうなので是非見てみたい。

ペルシャン・レッスン 戦場の教室


強制連行される荷台でジル(ナウエル・ペレーズビスカヤート)がサンドイッチを隣り合わせた男の盗んできたペルシャ語の本と交換するオープニング、相手の「戦時中には何でもありだ」とは「汝、盗むなかれ」に対する言葉だが確かにそうだと思っていたら、ジル以外は全員直後に銃殺される。「何でもあり」とはそういうことだと確信する。彼は仲間達の死体、あるいは死の行列から摘み出されて何度も生き残ることになるが、そこに死んだ人々の命が凝縮されている…ようには見えない、そんなわけがない。

元となった短編小説の原題は『Erfindung einer Sprache(言語の発明)』なのだそう。始めのうち、なるほどこんな関係の二人の間に言葉が作られていくという話なのかと見ていたらそうではなく、コッホ大尉(ラース・アイディンガー)はジルからペルシャ語の単語として強制収容所に入れられた人々の名前を教えられることになる。見ているうちサスペンスは、自由な時間は元より筆記具もないジルが自分で作った言葉を覚えていられるか否かというより大尉が毎日覚えさせられている言葉の語源に気付くか否かという方に移行する…しかし気付くはずがない、殺人者は殺す者の名前に興味を払わない。『アメリカン・ユートピア』(2020)の頂点がジャネール・モネイのHell You Talmboutの名前の連呼だったように、あるいは他の映画でも見たように…って何だったか忘れたけれど、今改めてこのことが強調されているんだと思う。

(以下「ネタバレ」しています)

本作が注視するのは毎度忘れられない顔つきのナウエル・ペレーズビスカヤート演じるジルよりもコッホ大尉の方である。冒頭、大尉と部下達の一幕がしばらく前にTLで流行っていた「癇癪を起こすカイロ・レン(と困る部下達)」に被ってしまいコメディなのかと見始めたものだけど(確かにコメディでもある、ナチスにもそういう側面はあるという映画だ)、進んで入隊しておきながら今やドイツ人にとっては「エキゾチック」なテヘランでレストランを開くことを夢見るばかりの彼の「人間性」が垣間見えれば見えるほど、そうは言っても一体なぜ自分に未来があると思っているのか不思議でならなかった(「わたしは殺人はしていない」「実行したやつにご馳走を食べさせてるのに?」)。映画の終わりに彼がイランに入国しようとしてジルが教えた言葉…収容所の人々の名前を口にして捕まるさまは、殺された人達の魂が彼を縛り上げに掛かっているように見えた。